見出し画像

わたしたちは「脳虫」なのかどうか

「脳虫」という存在がある。
脳の虫という、実直な名称に相対すると、清々しい思いがする。ときに、アリクイもそうであるし、オオアリクイは、よりそうである。ナマケモノもなかなかに実直ではあるが、厳密にはモノ・者なのかどうか一瞬、判断を迷う部分が、次点に欠した採決の所以であると識者はいう。さて、こうした実直さに裏打ちされながら、R・ドーキンスの「延長された表現型」では、ケルカリアといった線虫が、この「脳虫」として触れられている。

『「脳虫」は、その名にふさわしくそのアリの行動を変えるのだ。非感染のアリは寒くなってくるとふつう巣へ退却するのだろうが、感染したアリは草の茎のてっぺんにのぼって、顎でその植物に咬みつき、あたかも眠ったかのようにじっとしたままでいる。ここでそのアリは脳虫の最終宿主にくわれやすくなっているのである。』(R・ドーキンス 延長された表現型 405 寄生者遺伝子の効果としての寄主表現型)

カマキリが入水自殺する例は有名であるし、「残念な生き物図鑑」などの影響で、今日日小学三年生でもそうした認識がある。また、これも小学生が日常的にふれているショート動画の類いでは、ある種のかたつむりの角(目?)に、寄生生物が入り込み、しかも入り込んだだけではその種の顕示欲は満たされず、エレクトリカルパレードのようにキラキラと光り回りさえする。そのような映像に、日常的に触れることも出来る。これらもまた、その生物の意図せざる行動へ自らを導くという意味では、脳の虫たる「脳虫」である。
ここで、「トキソプラズマがオオカミの脳へ影響し、警戒を麻痺させ、勇気ある行動に導きリーダーにしている」という研究の報告を思い出す。トキソプラズマはこうした侵害行動を辿ることで、オオカミの勇気ある行動を誘発する。争いの最前線に赴くことが増えたオオカミは、危険を顧みない行動をとる可能性が増すのだという。こうしたオオカミは、『群れから離れる割合が約11倍、群れのリーダーに鳴る割合が約46倍も高かった』とされ、つまり、命知らずな行動に導くことでオオカミ自身、トキソプラズマ自身を、さらにオオカミとトキソプラズマの集団そのものに利益をもたらしている。(『オオカミを群れのリーダーにさせる寄生虫が研究で明らかに』2022 communications biology)

ここでふたたび、延長された表現型、ドーキンスの記述に戻る。

『ヴィックラー(1976)は、ある一匹のアリに感染させた約五十匹の脳虫のケルカリアのうち、ただ一匹だけがそのアリの脳へ穿孔し、その過程で死んでしまうと述べている。つまり、「そのケルカリアは他のケルカリアの利益のために自らを犠牲にしている」のだ。したがって、一匹のアリの中のケルカリア集団は、多胚性のクローンであるだろうと、ヴィックラーが予測しているのはもっともなことである。』

この示唆が、なんだかぞっとした気分にさせる。まるでわたしたちは、社会や集団という「アリ」にとっての、全体性利益を押し上げ、自己犠牲のミームにさからうことの叶わない「ケルカリアのようではないか」という想像が、じんわりと去来して、いやーな気分になる。もちろん、私たちは多胚性のクローンではないが(事情によるかもしれないが)、現在の日本の公教育を思い出してみると、まるで精神的には多胚性のクローンみたいだ、とやゆすることもできる。

じっさい、わたしたちヒトとトキソプラズマの関係性が、いくつかの研究で示唆されている。チェコの進化生物学者jaroslav flegrは、トキソプラズマが我々の脳をコントロールしている可能性がある、と指摘しているし(研究自体はネズミからネコへ媒介した線虫の研究である)、トルコイスタンブール大学のomer frauk demirerl氏らは、長らく議論されているトキソプラズマの潜伏感染機関における影響について、双極性障害やうつへの影響を示唆する研究報告をしている。

こうしたいやーな気分を抱えながらも、「わたしたちはなんらかの脳虫なのか」と問う。または、人生からそう「問われていること」について思いをめぐらせることは、だがしかし価値を持つ。
なぜなら、わたしたちが「なぜ服を着るのか」や、ハーロウ(Harlow,H 1905-1981)が明らかにした「接触の慰撫」による「繊維に触れることの安心感」が、じゃあ、はたしてどこから、どういう経緯で生物に備わったのか、という問題など、諸テキスタイルが本来持つ「意味」の端緒にあたる部分が、そこに関連しているかもしれないからだ。

バートレット(bartlett,sir,F,C 1886-1969)は、「想起の心理学」のなかで、『ある文化あるいは文化的複合体を構成する要素は、ある集団内部の人から人へ、また集団から集団へと移ってゆき、結局は、完全に慣習化した形式に到達することによって、ある集団の所有する文化の全体としてのまとまりの中に、確固とした位置を占めることになる。』と述べる。この文化形成や伝播の方法論と、そうならざるを得ない認知の構成方法の説明として『スキーマ(図式)』の概念と、スキーマをもとに文化的複合体が『1)脱落、2)合理化、3)細部の変容』を経て、集団の中で、繋がれて生きやすいような認知的不都合の内かたちに変容していく述べている。

諸テキスタイルが本来持つ「意味」の端緒にあたる部分を、バートレットの言うスキーマ(図式)をもって逆算していくと、そこにはわたしたちと「脳虫」の関係が、さらにいえば、「脳虫」たるわたしたちと世界の関係が、さらにもっといえば、「脳虫」としての繊維生物群(主だっては綿花、緬羊、蚕)たちが、ちらついている気がしてならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?