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現役早稲田生がエーリッヒ・フロム著『愛するということ』を要約してみた①

はじめに


漫画でもアニメでも映画でも何でもいいのだが、誰しも自分の中に一つくらいは、「これは名作だ!」と思うような作品や、自分に大きく影響を与えた作品というものを持っているのではないだろうか。

何度でも見返したくなり、そこに現れる信念や考えに感動し、それに則って生きていきたいとさえ思えるような、まさに「バイブル」のような作品を。

私の場合、それはとある一冊の本だった。この本によって私がそれまで持っていた考えや常識は大きく覆された。

現代を生きる誰しもが持っている漠然とした不安感や、孤独感。

今まで多くの哲学者や科学者が頭を悩ましてきたこの難解な問題を解決する為に必要なのはたった一つ、「愛」だとこの本は言ってのける。

本のタイトルは『愛するということ』

多くの人がこの本を手に取り、愛する技術を身につける事を望む。

また、要約するに当たってとても分量が多いため、何回かに分けることにする。

第一回となる今回は、多くの人々が「愛の問題」について持っている誤った認識について触れていき、「愛は技術である」ということを認識していただくことを目的とする。


愛とは何か

愛は技術である

愛とは何かという難しい問いに対して、この本はいきなり回答してくれる。すなわち「愛は技術である」と。私はいきなり驚かされた。

なぜなら、それまで私は愛というものを、ある種「運ゲー」のようなものだと考えていたからだ。
一目惚れするような魅力的な相手に出会い、その相手も偶然自分の事を好いてくれるという奇跡の上に成り立つ出来事だと。

そして驚いたのと同時に、とても救われたような気分になったことを覚えている。もし本当に「愛は技術」であるなら、その技術を身につけることで誰もが「愛」を経験できるということになるからだ。

「愛は技術である」と聞いて

「愛は技術なんかじゃないよ!運命で導かれた人と出会って、いつの間にか落ちているものなんだ!」

「わざわざ愛について学ばなくても、人を愛することは出来るよ!実際人のことを好きになったことはあるし、付き合ったこともあるよ!」

と言いたくなる人もいるかもしれない。しかしこれらは誤った思い込みだとフロムは言う。何故現代人は愛に飢えているのにもかかわらず、

「愛について学ぶ必要なんて無い」

と考えているのだろうか。そこには大きく三つの思い込みが存在している。

思い込み① 愛するよりも、愛されたい

多くの人々は、愛について考えるとき、「愛する」という問題ではなく「愛される」という問題として捉えている。

つまり人々にとって重要なのは「どのように人を愛すか」ではなく、
「どうすれば愛される人間になれるか」ということなのだ。

実を言うと私も、

「とにかく多くの人に愛されたい」

「どうすれば人に愛してもらえるのか」

ということばかり考えていた。しかしよくよく考えてみると、ただ愛されることを待っているだけの受け身な人間が誰かに愛されるなんて都合のいい話は、フィクションの世界にしか存在しない。

たとえ運良く誰かに好意を持たれたとしても、相手を愛そうとせず、ただただ愛されることしか頭に無い人はいずれ愛想をつかされ、別れを切り出されるのが関の山である。

思い込み② 愛は能力の問題ではなく、対象の問題である

愛することについて、多くの人はこう思っている。

「愛することは簡単だが、愛するに相応しい相手、あるいはその人に愛されたいと思うような相手を見つけるのは難しい。」と。

一見正しいように思えるが、フロムはこれを誤りだとしている。

こうした誤りが蔓延している原因として、20世紀に西洋で広まった自由恋愛が挙げられている。それ以前の世界では結婚は双方の家や仲人によって取り決められるものであった。結婚は社会的な配慮に基づいて決められ、愛は結婚後に生まれるものであると考えられていたのだ。

しかし自由恋愛が広まったことで、良くも悪くも人々は自分で相手を選べるようになった。このことにより、愛するという「能力」よりも、誰を愛するのかという「対象」の重要性が高くなったのだ。

また、現代の資本主義社会もその傾向を加速させているとフロムは言う。

「私たちの生きている社会は、購買欲と、たがいに好都合な交換という考え方のうえに立っている。現代人の楽しみとは、わくわくしながらショーウィンドウをながめたり、現金払いであれカード払いであれ、買えるだけの物はなんでも買うことである。そして誰もがそれと同じような目で人間を見ている。

p12~13 ℓ15-19

人間を商品のように考えてしまうと、人は自分の持っている(と認識している)価値とギリギリ釣り合うような相手しか選ばなくなる。

しかし当然のことだが人間は商品ではない。関わる人一人一人を、そして自分自身をしっかり人間として扱わなければならない。

思い込み③ 恋と愛とを混同している

多くの人々は、「恋」に落ちるという最初の体験と、「愛」、つまりパートナーと共に生きるという持続的な状態を同じものだと捉えている。

確かに「恋」に落ちるというのは素晴らしい体験だ。

「恋」に落ちる前と後とでは世界の見え方が大きく変化し、日々が鮮やかに彩られていく。もし好意を持った相手と徐々に親しくなり、付き合うことすら出来たなら、日々は幸せで溢れることだろう。

しかし時が経つにつれて、その感動や興奮は失われていく。

そして次第に相手の嫌なところが目につき始め、当初の好意は反感、失望、そして倦怠へと変わり、いつの日か別れが訪れる。

この流れは多くの人が経験したことがあるのではないだろうか。3組に1組は離婚すると言われている現代の状況から考えても、「相手を愛している」という状態を持続させる事が決して容易ではないことが分かるだろう。

導入まとめ

恋に落ちるという「経験」と、相手と共に生きていくという「状態」は全くの別物である。恋はきっかけに過ぎない。その状態を持続するには、当人達に「愛する」能力が育っていることが必要不可欠なのである。

では、これらの思い込みが間違っていることが分かった上で、私たちはどうすれば良いのだろうか。

もしこれが何か他の活動であれば、人は失敗に終わった原因を知りたいと思うだろうし、どうすれば上手くいくか知りたいと思うだろう。

「愛する」という問題についても同じである。失敗に終わった原因を調べ、そこから愛の意味を学び取るしかない。

そのために大事なのは、人間の全ての生命活動と同じく、「愛」も技術なのだと認識することだ。他の技術を学ぶときと同じように、「愛」についても学ばなければならない。

何か技術を習得するには大きく分けて二つの過程がある。

まずはその理論について精通する事。そして実際にその修練に励むこと。

そしてこのときに必要なのが、「その技術を身につけることが、自分にとって他の何にも勝る究極の関心事でなければならない」ということだ。
この世にその技術よりも重要なものはないと確信しなければならない。

現代人の多くが心の底から愛を欲しているにもかかわらず、成功、富、権力などの分かりやすい価値を手に入れることの方が重要だと考え、それらを手に入れるために多くのエネルギーを費やしている。その結果愛について学ぶエネルギーが残っていないのだ。

次回は愛の理論について触れていこうと思う。恐らく相当な分量になるのでまた愛の理論についても何回かに分けて要約していくことになる。

大学最後の講義も終わり時間ができたため、この本について自分自身が更に理解を深めたいと思い始めた自分の為のメモのようなものではあるが、もし興味を持って読んでいただける方がいれば幸いだ。

また、このnoteを読んで興味を持った方は、是非実際に手に取って読んでみていただきたい。


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