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たわわな知識の無駄遣い

正直、腹が立つ

 私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王(https://twitter.com/rengejibu?s=20&t=CJEv_-pZ-VdkyavdmAjcRg)を除かなければならぬと決意した。私にはジェンダー学がわからぬ。私は、日本の庶民である。Twitterを呟き、のうのうと遊んで暮して来た。けれども表現規制に対しては、人一倍に敏感であった。

とまあ、『走れメロス』の冒頭をもじってみましたが、それにしても、ここまで快・不快によらない純粋な怒りを感じたのは初めてかもしれない。近年、ことジェンダー問題についてジェンダー学ないしジェンダーに関心の高い層のご都合主義には辟易するものがあった。その集大成とも言えるのが、最近取り沙汰されている『「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載問題』である。

Twitter上では瞬く間に議論の嵐を呼び、その真っ最中でもあるが、私が特に怒りを感じたのはこの記事である。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7?utm_campaign=share_twitter&ncid=engmodushpmg00000004


批判の内容

 ここからは、治部准教授が問題点とした3点についてを掲載する。

1つ目は、あらゆる属性の人が読む最大手の経済新聞に掲載されたことで、「見たくない人」にも情報が届いたことだ。

「読みたい人がヤングマガジンを手に取って読むことは、今回の問題ではありません。それよりも、女性や性的な描写のある漫画を好まない男性が『見たくない表現に触れない権利』をメディアが守れなかったことが問題です」

ネット上では、はからずも「見たくない表現」に日経新聞の朝刊で出合ってしまった読者が、購読の解約を表明する動きも出ている。治部准教授は「広告によって与えられた媒体のイメージはすぐには払拭できません。どのような広告を載せるかは、メディアにとってのリスクにもつながります」と話す。
2つ目の問題は、広告掲載によって「異性愛者の男性が未成年の少女を性的な対象として搾取する」という「ステレオタイプ」(世間的固定概念)を肯定し、新聞社が「社会的なお墨付きを与えた」と見られることにある。

「広告は女子高生のイラストをあえて用いることで、作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのものを日経新聞が肯定する構図です」


日経新聞は、国連女性機関(UN Women)などがつくった「女性のエンパワーメント原則」というガイドラインにも署名している。同原則は、次(https://www.weps.org/sites/default/files/2021-02/WEPs_HANDBOOK_Japanese_LOW%20RES.pdf)のように謳っている。

<女性と女の子に対するネガティブで画一的な固定観念は、ジェンダー平等の実現を阻む最も大きな要因の一つです。

企業広告は、こうした固定観念や社会規範の形成に大きな影響を及ぼします。

女性と男性、女の子と男の子が、従来の固定観念にとらわれず、現代的で多様な役割を担っている様子を表現することで、社会に深く根付いているジェンダーバイアスに変革を起こすことができます>


治部准教授は、今回の全面広告はこのガイドラインにも反すると強調する。

海外では、ジェンダー平等の実現を妨げる広告に対し、厳しい対応をとる動きもある。イギリスでは2019年から広告標準化協会が「性別にもとづく有害なステレオタイプ」を使った広告を禁止している。治部准教授は「今回の全面広告は、こうした国際的な潮流に日本の企業やメディアが取り残されていることを明白にした」と指摘する。
3つ目の問題点は、これまで「メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプを撤廃するための世界的な取り組み」を国際機関とともに展開してきた日経新聞が、自ら「ジェンダーのステレオタイプを強化する」という矛盾に陥ってしまったことだ。

日経新聞はUN Women 日本事務所と連携し、ジェンダー平等に貢献する広告を表彰する「日経ウーマンエンパワーメント広告賞」を主催するなど、広告のジェンダー平等化を推進する立場に立ってきた。同賞では、「3つのP」という審査項目を掲げている。

Presence 多様な人々が含まれているか

Perspective 男性と女性の視点を平等に取り上げているか

Personality 人格や主体性がある存在として描かれているか

治部准教授は「この基準に照らすと、今回の全面広告は、『未成年の女性の肉体に欲望を抱く男性の視点』のみに偏っており、見られ、触られる側に立つ女子高生の『人格や主体性』は考慮されていません」と指摘する。

日経新聞は自ら掲げてきた理念に反する広告を掲載したことになる。

「今回の全面広告は、女子高生が胸を腕で隠すなど、『いまの日本が持つ基準内で問題にならないように』工夫した形跡があります。この広告がステレオタイプの助長につながるおそれがあると『多少はわかっている』のに、掲載に至ったと思われます。

これまで大手メディアとしてジェンダーのステレオタイプを克服するために取り組んできたことは、全て偽善だったのでしょうか」


は?

 この記事に対する感想は「は?」そのものである。早い話が「結局は、自分の望む理想の世界を、法の上に立つ存在として実現しようとしているだけの駄文でしかない」ということである。

ここからは、指摘された問題点に対して書いてみる。


責任転嫁

 1つ目の問題点でおかしいのは、『見たくない表現に触れない権利』を乱用し、一方的に責任を負わせている点だ。

日経新聞は新聞でありヤングマガジンではない。日経新聞の読者が読みたいのは日経新聞であり広告ではない。新聞広告にヤングマガジンを読みたい人へ向けた広告を掲載したとて何ら問題はない。
この場合、『見たくない表現に触れない権利』の使い方として正しいのは、『日経新聞の購読を止める』ことである。

そして、何より憤りを覚えたのは、「女性や性的な描写のある漫画を好まない男性」というものである。当然そういった人は存在するだろう。しかし、この人物像は准教授が勝手に作り出した仮想被害者であり、日経新聞サイドに過度な責任を負わせるため且つ、自論の正当化の為の都合のいい男性像である。

そもそも、「権利を守る」とは「その権利を行使できることを保障・容認する」ことだと考える。
そう考えれば、この取材記事が何の妨害もなく掲載でき、議論を呼べている今の状況こそ、『見たくない表現に触れない権利』をメディアが守っている最たる事例ではないだろうか。

この章の最後は、「広告が与えるイメージはメディアにとって重要であり、リスクマネジメントが大切である」というような一般論を語っている。

この章の総括としては、「リスクマネジメントは必要だが、どんな広告を載せるかは自由である」と一般論を語りつつも、婉曲的に「ほらな?こうやって炎上するだろ?炎上したくなければこんな広告を出すなよ?」と言っているように思えた。

日経新聞の購読者に「女性や性的な描写のある漫画を好まない男性」がいるのであれば、(以下は生物学的性別として記載する)「女性や性的な描写のある漫画を好まない女性」も存在し、「女性や性的な描写のある漫画を好む男性」「女性や性的な描写のある漫画を好む女性」も存在する。

更には「男性や性的な描写のある漫画を好まない女性」「男性や性的な描写のある漫画を好まない男性」「男性や性的な描写のある漫画を好む女性」「男性や性的な描写のある漫画を好む男性」もまた存在する。

あらゆる属性の人が存在する以上一定の配慮は必要であり、広告自体に問題はなくとも、それによる利益に対する責任は負わなければならない。しかし、その対象は際限がなく、配慮には限界がある。

つまり、法的に問題がない以上、この広告の掲載の是非は日経新聞が利益ベースで判断すべき事象であるということだ。

結論、この問題点はそもそも存在せず、批判のために作り出された自作自演問題である。



ステレオタイプなレッテル貼り

 2つ目の問題として掲げられた意見は、悪質な印象操作とジェンダー平等を履き違えた暴論である。

この章は1行目から衝撃的だ。
何せ「「異性愛者の男性が未成年の少女を性的な対象として搾取する」という「ステレオタイプ」(世間的固定概念)を肯定し、新聞社が「社会的なお墨付きを与えた」」と言っている。

更に2行目では「「広告は女子高生のイラストをあえて用いることで、作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのものを日経新聞が肯定する構図です」」などと語っている。

私は作品自体はTwitterで掲載していた頃にしか観たことがなく、書籍としては一度も観ていない。

しかし今回、重視すべきは作品の内容ではない。これは明らかであり、仮に作品の内容が「女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害」を肯定するものだったとしても、イラスト上に問題はなく、広告内で内容についての言及がないのであれば問題とは言い切れない。

そもそも雌雄ある生物である以上、異性を性的な対象として捉えるのは当然であり、本来年齢など何の関係もない。ではなぜ、このように言われるのかというと「持続的な社会(秩序)維持のため」であると思う。

今回の批判として准教授は、「作品の内容が「女子高生への性的な虐待」であるから、この広告にはジェンダー的に問題がある」と、紙面上からは到底考えられない角度からアプローチしているのが、この章で判明した。

私がTwitterで観ていた時のことを思い返すと、あの作品が男性向けであることは恐らく正しい。そして性的欲求を刺激することが、作品の人気を博す要因の一つであることも恐らく事実である。だが、それが全てではないことも事実。


しかし何故、性的欲求を刺激することそのものが女子高生への性的な虐待を肯定していることに結びつくのか?甚だ疑問だ。記事を読む限りでは「性的欲求を刺激するようなシーン=女子高生への性的な虐待」という極端な認識で論を述べていると感じた。

普通に生活していれば、同作品のようまでとは言わないが、作中と似たようなシチュエーションが起きる可能性はある。同作品はそんな日常のリアリティとフィクションの融合であり、「女子高生への性的な虐待である」という批判は絶対に間違えている。むしろ男性差別に近いステレオタイプなレッテル貼りである。


女子高生と男の子

個人的な感想だが、男性の私からすれば、街中にある全裸で局部まで再現されている男児の彫刻作品は非常に不快で恥ずかしさを感じる。しかし、その逆はまず殆ど存在しない。


准教授に言わせれば、この彫刻作品は「男の子への性的な虐待」ではないのだろうか?

「女子高生」と「男の子」これらは抽象化された概念だが、何故か女子高生の尊厳に関しては、購入の必要があり一定のゾーニングがなされている実在しない存在まで尊重されるのに、女子高生よりも多く存在する男の子に対しては、非常にルーズなゾーニングで公共の場で局部まで晒されるのか。

ジェンダー平等を謳う割には、かねてから存在するジェンダー不平等には関心がないようだ。

また、記事中の引用から読み取れるのは、「性別関係なく現代的で多様な役割を担える取り組みが重要である」ということであって、今回の事例は多様な役割の内の一つであり、それがステレオタイプだったと言うだけのことだ。


ここで作品とは無関係もしくは男性キャラクターが広告に掲載されていたとしたらどうだっただろうか?

恐らくステレオタイプから外れているとは思う。がしかし、そうなると最早別の作品であり広告としての意味が失われるだろう。更に、「男性や性的な描写のある漫画を好まない女性」が登場することになる。

どうやらステレオタイプは現代的で多様な役割には含まれていないようだ。

准教授の排他性が伺い知れる。


怠慢・欺瞞

 さて、ここまでかなり辟易としてきたが、この章の最後の弁論について記述していく。

これも1行目から強烈だが、「海外では、ジェンダー平等の実現を妨げる広告に対し、厳しい対応をとる動きもある。」というもの。これに対する疑問としては、その「ジェンダー平等の実現を妨げる広告」というものに明確な定義もしくはガイドラインは存在するのだろうか。

最後は「「今回の全面広告は、こうした国際的な潮流に日本の企業やメディアが取り残されていることを明白にした」」と述べている。

こういった時に海外の潮流を持ち出すケースは多い。しかし、グローバルスタンダードが必ずしも絶対的正義であるとは限らない。

挙げられていたイギリスの広告標準化協会に関する記事(https://www.bbc.com/japanese/48659092)を読んだが、その中のコラムニスト、アンジェラ・エプスティーン氏の指摘こそ、この話題の本質的な回答であろう。

「賃金格差や職場でのいじめ、家庭内暴力(DV)、セクハラなど、平等のために戦わなくてはならない大きな問題がたくさんある。しかし、広告の中で女性が皿洗いをしているのは、別次元の問題だ。何でもかんでもいっしょくたにしてしまうと、感覚が麻痺してしまい、本当に必要な大事な議論を矮小化してしまう」

「国際的な潮流だから」という理由で企業にそれを強いることは不可能・理不尽であり、実際の問題、例えば園子温監督の作品出演と引き換えの性交渉強要問題を問題視しない態度はジェンダー平等を掲げる立場として怠慢なのではないかと言わざるをえない。

そうでしょう?治部れんげ准教授・ハフポストさん?


偽善

 ようやく3つ目の問題に対して言及が出来る。3つ目は、2つ目の問題の補強の要素が強い。要するに、ここまででっち上げた問題点を正論を混ぜて正当化してやろうということだ。

この章で准教授はこのように語っている。
「今回の全面広告は、『未成年の女性の肉体に欲望を抱く男性の視点』のみに偏っており、見られ、触られる側に立つ女子高生の『人格や主体性』は考慮されていません」
「女子高生が胸を腕で隠すなど、『いまの日本が持つ基準内で問題にならないように』工夫した形跡があります。この広告がステレオタイプの助長につながるおそれがあると『多少はわかっている』のに、掲載に至ったと思われます。」

だが、この2文。よく読むと矛盾しているように思える。

2文目ではジェンダー平等の為の配慮をした事実(あくまで工夫した形跡という推測であり、制作側からの明示的な言及はない)がある。
これはつまり、記事で提示し批判対象とした「3つのP」内のPerspectiveを考慮し、男性と女性の視点を平等に、更に言えば「見られ、触られる側に立つ女子高生の『人格や主体性」を取り上げた結果であり、1文目で言及した内容と矛盾するのではないだろうか。

制作側が配慮した結果この構図になったと推察したのであれば、本来なら准教授は称賛すべき立場のはずだ。しかし現実はそうしなかった。むしろその歩み寄りを拒絶し、表現自体を封殺しようとしている。

「全て偽善だったのでしょうか」などとほざいているが、現実の問題には自分たちが望むケースしか言及しないのに、人格や主体性が存在しない存在である2次元のキャラクターに対しては烈火の如く批判し弾圧する人間が「ジェンダー平等」と叫ぶ。


それこそ偽善である


上記は女子高生をネガティブなステレオタイプとして利用している。こちらの方がより深刻だ。
私は、「女子高生は小難しいことがよく分からない」というステレオタイプを肯定してるように見えるし、「女性は守られるもの」というステレオタイプを肯定してるようにも見える。逆に、「男子高校生は幼稚で現実問題に関心がない」というステレオタイプを肯定する姿勢が見え隠れする可能性も指摘しようと思えば指摘できる。
子供へのワクチン接種に懐疑的であるなら、その根拠だけを提示して意見を募ればいいわけで、キャラクターとして女子高生を使う意味がない。この広告は、女子高生のステレオタイプを人質に使った最低の広告である。

が、准教授もハフポストも何の言及もしなかった。

要するに、「自分達から見て性的か否か」が多様性やジェンダー平等を訴えるかどうかのラインなのだろう。

純粋な怒り

  近年、こういったジェンダー平等を謳う方々の行動には矛盾する点が多かった。しかし、「東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授/内閣府男女共同参画会議専門委員/東京都男女平等参画審議会委員/豊島区男女共同参画推進会議会長」という高尚な肩書まで背負った方までが、今回の事象のように企業が不利益を被るような理不尽な要求をしていることに強い怒りを覚え、このnoteを書いた。

今までの20年余りの人生の中で初めて、善意や悪意、快・不快などの別の感情が一切ない純粋な怒りを覚えた。

「この批判を許してはならない。明確な根拠もなく一方的に他人の権利を侵害し、法の下に平等に与えられているはずの自由が失われる。これが許されれば、法に抵触する前に表現が封殺されてしまう。これは検閲・弾圧ではないのか?」

そんな思いが、普段多様性や平等を謳う立場の者、それもそれを推進・喧伝・教育する者が自分達に都合の良い社会を構成しようとしている事実を見た時、遂に沸点を超えた。

本来、性的搾取というものは例えば、「同じ業務遂行能力なのに女性社員のほうが給与が低い」「男性だから育児休暇を取得できない」のように性別を理由とした不利益のことを指し、性的(エロい)かどうかは要因の一つにすぎない。
無論、そういった搾取は是正されて然るべきだが、こと表現に関しては段違いに判断が難しい。しかし、表現のほうがインパクトがあり、理解もしやすく、比較的容易にグルーピングが出来るからこそ、このような偽善者達の批判の対象になってしまい、本当に解決すべき問題がおざなりになる。

現実のエロい方での性的搾取は様々な原因がある。件の映画監督がその典型とも言える。
作品に起用するキャストを選ぶ権限がある監督と、選ばれる側であり俳優業で安定した生活が難しい俳優との間には凄まじい権力勾配があり、某監督はその権力を利用し性交渉を強要した。
直接の原因は某監督の行動である。そして権力勾配はその一因だが、完全にフラットにするというのは難しく、双方の信頼関係とモラルによって維持されるべきものだ。
そして、本来解決すべきなのは、「人気がなければ性的搾取に甘んじなければ継続できない役者という職業のシステム」そのものである。

冒頭、ジェンダー学が分からないと言ったが、分からないなりに考えてみた。結論としては、「ジェンダー学とは、各種法律やあらゆる分野の学問を都度参照し、論理的なプロセスを必要とする極めて修得難度の高い学問であり、常に変容するものである」というところに至った。

准教授、ハフポストはじめ、この手の輩は一方向からの視点でしか事象を捉えず、物事の関係性をすっ飛ばして論理的なプロセスを踏まないために、感情を全面に押し出した整合性のない短絡的な結論を出してしまうのだろう。
そして、一領域しか理解がなく事象を分析しないので現実に起きた問題の根本的な解決方法を提案できない。
結果として、誰にも正解を見いだせない領域での批判に精を出すが、その領域は想像以上に広く、更には憲法で保証されている。

ジェンダー平等が叫ばれ、曲がりなりにも「ジェンダー学」という分野が構築されてきた今、判断が難しい表現規制もこれまで通りの批判では通用しない。むしろ、明確な根拠とプロセスが求められている時代になってきている。
本来であれば喜ぶべきだが、現状では「意識だけ高く、実際の性的搾取の解決はしてくれない、周囲に大声で当たり散らす無能」を生み出す学問になっている。

少なくとも、日本のジェンダー平等の敵はジェンダー平等にしか関心のない人間である。


最後に

 最後に、記事は准教授の意見を並べているが、締めくくりのタイトルは「「被害者守って」呼びかけも」というものであり、ここは記者のオリジナルだ。そこには以下のリンクが付いていた。

このツイート自体は明確な根拠があり現実と向き合っている。
しかし、ハフポストはどうだろうか。以下はこのツイートの前に書かれた文である。

「今年の新入社員が最初に迎える月曜日」に、「豊満な体型」の女子高生を通勤中に眺めて「元気になってもらう」。こうしたステレオタイプを強化する全面広告が注目を浴びる一方で、女子高生らは痴漢の増える不安な時期を迎えている。

これである。

最後の最後まで、女子高生らの不安を利用しながら、作品を理不尽に貶める表現で締めている。正直、反吐が出る。

今一度、誰が性的搾取をしているのか鏡を見て頂きたい。


このnoteを読んで頂いたのであれば、「自分は誰かにジェンダー不平等をしていないだろうか?」と内省する機会になれば幸いである。

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