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【読書】「茨木のり子の家」茨木 のり子(著), 小畑 雄嗣(写真)

時代おくれ
車がない
ワープロがない
ビデオデッキがない
ファックスがない
パソコン インターネット 見たこともない
けれど格別支障もない

 そんなに情報集めてどうするの
 そんなに急いで何をするの
 頭はからっぽのまま

すぐに古びるがらくたは
我が山門に入るを許さず
(山門だって 木戸しかないのに)
はたから見れば嘲笑の時代おくれ
     もっともっと遅れたい

電話ひとつだって
おそるべき文明の利器でありがたがっているうちに
盗聴も自由とか
便利なものはたいてい不快な副作用をともなう
川のまんなかに小船を浮かべ
江戸時代のように密談しなければならない日がくるのかも

旧式の黒いダイヤルを
ゆっくり廻していると
相手は出ない
むなしく呼び出し音の鳴るあいだ
ふっと
行ったこともない
シッキムやブータンの子らの
襟足の匂いが風に乗って漂ってくる
どてらのような民族衣装
陽なたくさい枯れ草の匂い

何が起ろうと生き残れるのはあなたたち
まっとうとも思わずに
まっとうに生きているひとびとよ


先日散歩がてら、詩人・茨木のり子邸まで歩くことにした。いつか、いつかと先延ばしにしていたものだから、いつまでも気掛かりを抱えて生きるのは辛いと思い、意を決して家まで行ってみることにしたのである。


だが、あらかじめ住所を知っていたわけではない。ネットから拾ってきた自宅画像を眺めながら、東伏見駅周辺をしばらく彷徨った。


時刻は20時。街灯もなく途方に暮れながらも、近くの家々から溢れる灯りを頼りに自宅を探すと、ようやくそれらしき建物を見つけた。


表札には「三浦 茨木」とある。思わず感激した。
記念に表札だけでもカメラに収めようとスマホを取り出し、急いでシャッターを押したが、全部ブレた。自分の不甲斐なさに呆然とするが、これ以上不審な動きはできない。そう思って、景色を眼に焼き付けることにした。最後は「また来ます」と一礼し、自宅へと戻った。


その後、「茨木のり子の家」という本に出合った。
当時使われていた自宅の様子がそのまま残されており、まるで今もそこに暮らしているかのような余韻をたしかに感じさせる。


今回は身体と本の両方から、詩人・茨木のり子の存在を感じることができた。この世はなんだか不思議なもので、亡くなった後にこそ、故人の存在を強く実感することがある。そのようなことを感じるたびに、「生きる」ということについて、また深く考えてしまう。

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