山形国際ドキュメンタリー映画祭2023
YIDFF2023、今年も無事終了。はじめてタイムスケジュールを見たとき、「あれ、パッとしないのでは……?」と思ったけど、始まってみると充分贅沢なラインアップ。補助金カットによる予算減額、規模縮小の結果、前回から会場から市立美術館とレイトショーが減る。とはいえまあ前者はイベントホールにパイプ椅子だったから長居は辛かったのだがそれさえ懐かしい(現実の創造的劇化も見たな……。あと近くの500円刺身定食屋は元気なのだろうか)。
さて、今回の振り返り。
2023.10.6. 金
最寄りを6時台に発ち11時着。荷物を駅前コインロッカーに預け、市民会館へ。
1発目は野田真吉特集。作家にかんする予備知識ゼロで臨んだが、むしろ先入観なしで見られて良かったかも。人生2度目の『農村住宅改善』は旧式の農村に住む主婦がいかに不便な動線の元で生活しているか、説かれていくさまが見事で惚れ惚れする……と、いきなり「アッ米が炊けた!」でクスリ。あのリズム、素晴らしい。初見『東北の祭り』は第一部で花巻の鹿踊り、第二部で八戸の三社祭、第三部で新潟県直江津市西横山のぼんでんまつりと文字通りの〈奇祭〉が目白押し。特にぼんでんまつりは山ちゃんモリマンごぼうしばき合い対決を思わせる、松明しばき合い(?)が、しばく側しばかれる側ともに浮かべるあの屈託なき笑顔とともに忘れられない。で、『忘れられた土地:生活の記録シリーズⅡ』。厳しい貧村の有り様がブニュエルだなぁと考えているとやはりそうだったよう。中学生のこどもたちがどのように未来を見ていたのか……。恵まれた環境に甘んじる自分を反省。
さらに『谷間の少女』は少女の眼が印象的なのだが、どことなく非特撮ものの本多猪四郎を想起させなくもない堅実なつくりに好感。劇映画もしっかり撮れるのね。特に囲炉裏を囲んだ家族4人の会話場面、混乱しないキャメラポジションがベタすぎといえばベタすぎだが「普通」に良い。『機関車小僧』、『小賣店の仕事』も同様。ところで後者2本、主演の少年が同一俳優だった。
そして『ラジオ下神白』。念願の小森はるか最新作……なのだけれども被写体男性から終始漂う怪しさというか胡散臭さに集中を削がれつつの鑑賞。軽薄というわけでもないし詐欺師っぽいわけでもない。周りに女性ばかりいて、しかも彼女らの雰囲気がまたどことなく信者感が……。この間見た『カナリア』じゃないんだから。まあ別の被写体である老人たちはやはりおもしろく、ポルトガル語で「愛してる」を言う元ブラジル在住男性や、グラス並々のワインをあっけらかんと愉しむ90歳女性など興味深い。そして彼ら彼女らが最後に歌う「青い山脈」。マジではじめていい歌だと思えた。ありがとう、西条八十。チェックインし、中風呂サイズの温泉で温まる。飯田温泉、遠くて狭いが悪くない。
2023.10.7 土
前日に賛否両論だが見ておいたほうがいいかもと教わった『ニッツ・アイランド』。オンラインゲームで出会したプレーヤーにインタビューを試みる。要するに画面はゲーム、音はボイスチャットの2時間。俺はAPEXやるからまだ馴染みあるけど老人はどうなのよとかそれで長篇になるのかとか不安で見たが、少なくとも飽きる暇はなかった。まあFPSと現実の混同という主題そのものがなんかもうどっかで見たことあるよと言いたくもなるが、実感としては分かる(あの窪み隠れやすそうだなとか)。逆に、このプレー画面を見続けているのに自分がコントローラーを持っていないのがむしろ不思議で、スティック動かしたくなる時間があった。ま、編集お疲れさんでした。切り返して海!がベストモーメントかな。ほかの人がどう見たのか気になってQAも残ったが、案外否定的な声はなく、むしろゲームそのものの専門家みたいに扱われる監督がやや不憫で、作品のこと聞いてあげなよと。手を挙げたが直前に指名された方がDayZ 2,000時間プレーヤー!監督ニヤリ。
急いで隣の大ホールへ行くとちょうど頭から見れた『1960年6月:安保への怒り』。一般的なつくりのニュース映画で、こういうのももちろんできるんだなと。
『新日本地理映画体系』は4本各20分。順に、利根川、本州の屋根、東海道の今と昔、東北の農村の副題。いやあ、保土ヶ谷でテンションが上がるのはあの会場で自分だけだったろうな。
『鋳物の技術:キュポラ熔解』は何言っとるかちっともわからんがすっごく分かりやすいという超絶矛盾。内容は分からんが形式は素晴らしいという意味。『マリン・スノー:石油の起源』は生死の循環という仏教思想がのちの民俗学への傾倒に繋がっていくのかなと。炎、超絶美麗。『オッペンハイマー』を一瞬想起。『伸びゆく東北電力 第10集 この雪の下に』、電気工事がやや西部劇的か。対談は岡田さん、田中さんら。初学者にもオールドファンにも優しく、対談あるべし。
この辺から小ホールにケツを殺されてきた『これからご覧になる映画は』と『イーストウッド』。どちらもまあお遊戯。
で、今回の目玉、『Oasis』。こうなると今まで捉えてきた三宅唱像を根幹からひっくり返さねばならない。つまり、まんま三宅(笑)。iPhone、友達ノリホームムービー、そしてそんな仲良しノリから出発しているにもかかわらずずっとちょっと流れる不穏。コミュニケーションが成立していそうでいなさそうな撮影男女。彼らと録音男女は異なる相に住まう者たちと理解し、前者は後者にその存在を近くされている(どころかサウンドトラックを編集されている)がそれに気づいていないというこの不均衡が極めて恐ろしい。なぜそんなことをするのか。最後まで両者は交わらない。無論それは『イーストウッド』のイラン現代社会スケッチと老優探しが交わらない能天気とはまったく逆ベクトルを成す。これを大学のいちプロジェクトで作っちゃいますか。夜は激混み香味庵からの深夜餃子。あの騒ぎだとおそらく次回以降ワシントンホテルは会場貸し出してくれないはず(笑)。あそこに宿は取らない方が良い!
2023.10.8 日
朝寝坊。昼は勧められた三越地下の蕎麦屋、美味!時間潰しに『津島-福島は語る・第二章-』を第3章のみ。とはいえスチルに掲載されている方の場面を見られたので結構ええとこを見られたか。実際、離婚後貧困に喘ぎながらも地縁の助けを借りながら3人のこどもを高校まで行かせた女性の語りからは耳が離せない。
後ろ髪を引かれつつ、『訪問、秘密の庭』。60年代スペインで活動したという伝説の画家イサベル・サンタロを叔母に持つ監督が、彼女を撮ろうとするものの叔母の強烈なキャラクターが立ちはだかる。と書くと激しそうだが映像の文体はしっとりとしており、さらに叔母の個性も相まってなかなか面白い。冒頭から叔母の顔を避けるフレーミングが続き、6カット目でようやく顔を現す。いやはやスターの現れ方ではないか。しかもその顔がなんとマーロン・ブランドに似ている。奇妙にも彼女は『地獄の黙示録』の彼のように言葉を発さず、半分を過ぎた頃からやおら話し出す(あの太い濁声!!!)。そしてその口からは姪への文句が継がれていくのだが、ただ口が悪いのではなく、的を射ているのがいっそう痛快。30過ぎてるのに召使ってどんなもんかも知らんのか?ああ、この叔母が30を迎えたのはおそらく当の60年代ののとではなかろうか……と考えると時間感覚が二重になり深みを増す(しかし本作、65分)。文句が最高潮に達したところで、「イレーネ、だからお前は……」と、姪の名前をはじめて呼ぶ。あんなにお前なんて知らないと言っていた叔母が、である。こんな感動久しぶりだ。フランコの名を出さずに60年代を描く志を評価したい(おまけに登場する男性はみな声のみの存在に帰される。民三『花ちりぬ』!)傑作なデブ猫も忘れがたい。
野田PR映画プログラム『海と陸を結ぶ』、『オリンピックを運ぶ』、『ニチレ・ア・ラ・カルト』。『オリンピック』はプロの映写技師の方が滂沱の涙を流したことがあると聞いていたが、日陰職人に着目する様子に、自分も結構ストレートに胸を打たれた。マラソントラックのポールをひとつひとつ走るトラックの荷台から受け取っては置いていくあの彼、そして後続で微調整する彼……。世界は誰かの仕事でできている、はBOSSのコピーだったか。帰国する選手たちがこちらを振り返って投げキッスするくだりで泣けてしまった。いや俺も頑張らなくては。
『まだ見ぬ街』はまさにシネポエムと言える出来。見たことのある街がなんだか幾何学模様に還元されて見たことのない街に変容を遂げる。『ふたりの長距離ランナーの孤独』は……お遊び?
このプログラムを途中抜けで『どうすればよかったか?』。統合失調症の姉と、優秀すぎた両親、そして弟である自分の30年に亘る格闘を描くセルフドキュメンタリー。要検討だが2000年前後といえばこのジャンルの興隆と期を一にしており、松江哲明なんかがこれに当たる。当時からガンガンセルフドキュメンタリーが公開されていた一方で、まだこんな映像が完成を待っていたとは……。ショッキングな映像については書きたくない。私は鑑賞中にメガネを外した。クオリティが酷いわけではなく、ただ正視するに耐えうる精神を保てそうになかったから。ひとつあるとすれば、最後に父親に撮影・公開許可の言質を取るくだりがはっきり残されているが、あの時点で彼に認知能力があったかどうか。そもそも精神を病む姉や母を撮ってよかったのかどうか。かかりつけの医師が危惧したのもそこではないのか。無論、こんな詮索も作品の意義の前ではあまりに小さい。監督QAはあまりに作品の緊張が深かったので些細なことで爆笑が起きる。通訳の方とは長い仲だそうで丁々発止の新手の漫才。笑いとはこれである。これからもどうぞお元気で過ごされてくださいと心から。
2023.10.9 月祝
俺はこれを見て泣くんだと初日から言う方のあった『キムズ・ビデオ』。N.Y.で経営された同名のレンタルビデオショップが廃業。5万点を超えるソフトの在庫は公募から選ばれたシチリアのある街へ移送されるがそこではイタリアンマフィアが行政を牛耳っており……という、ウソみたいなホントの話。面白さだけで言ったら今回1番で、会場も爆笑に次ぐ爆笑。映画っていいもんですねぇと興奮のうちに幕。名作珍品の引用の仕方もこの手の作品では珍しく鼻につかないどころか超的確で、強奪シーンの陳腐さもここまで来たら抱きしめたくなるほど愛おしい。
地下蕎麦を再訪、中華蕎麦も絶品であることを確かめてから『私はトンボ』。韓国の競争社会を受験に臨む女子高校生の瞳から見る。いやはや日本も他人事ではない。こんなんだから私含めた若者が未だ到来せざる未来にあらかじめ絶望するのである。ふと横の大人どもを見ると、先日から見ているEテレ『日本戦後サブカルチャー史』80's篇の林真理子の堂々たる醜悪さが際立つ。お前らのせいでと憎んでも仕方ないのは分かってるけどさ。
すぐさまお隣で『冬の夜の神々の宴』と『生者と死者のかよい路』。うーむ、なかなか苦しい。民俗学的なるものへの関心が薄いほうだとは自覚しているが、どう興味を持続させたらよいか考えあぐねるうちに終わってしまった。調味料を試すうちに食べ終わる、みたいな。
早歩きで『ターミナル』へ。初グスタボ・フォンタン。ドキュメンタリーというか、イマージュというか。誰が見たって陰影に富む靄や光の反映が美しい。映像はターミナルに集う人々のスケッチであり、すべてのショットで異なる人々を映す(たしかすべてカットつなぎ)一方で、音響は断絶することなく一続きになっていたのが大胆。そこに愛にまつわるエトセトラが重なっていき、最後の独白だけが死別までを含む。全然不快ではないが70分は長いかな。
戻って『ゆきははなである:新野の雪まつり』。これこそ長い。途中、信じられないぐらい船を漕いでしまった。後ろの方、すみません。この遺作を味わうメチエはまだ持っていない……。
ホール内の全員とともに移動して、『言葉の力』、『火の娘たち』二本立て。コスタの指定によるという。新幹線の時間があるので前者で切り上げるつもりだったがあんまり興奮したので後者も。並べた結果、火の娘たちが、あらゆる災厄の終わった〈後〉、なにがしかを始めていく〈前〉にいるのだろうという淡さのみ手にした。気がする。スタンダードが横に3画面並ぶアベル・ガンス『戦争と平和』形式で、ゴダール的なモンタージュを別角度から撃つ。着想がオペラと読んで、逆に単純すぎるのではと笑う。ヌーヴェル・ヴァーグなんてなかったみたいに『血』を撮った人が、ねえ。還暦超えにしかできぬ開き直り芸!
終映から15分で新幹線だから走ったがもうやりたくない。