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そんな堅くならなくても……と思いつつ、noteをはじめるにあたって、一応方針を示します。

書くレッスン

ここでは、基本的に長文を載せようと考えています。
在学中はレポートなどでまとまった分量のレポートを書く機会はあったのですが、卒業すると難しい……。
壁に向かってひとりで懇々と書きつらねることへのロマンを感じる一方で、何より人に読んでもらうことが大切だとも思うので、公開を決めました。

映画は芸術である

書くことの矢印が自分の外側へ向かっている理由はほかにもあります。
率直にいって、最近映画が軽んじられていないかという憂いです。
少し前に日本語のニュースサイトで知ったのですが、アメリカの『ハーパーズ・マガジン』誌 Harper's Magazineに、映画監督マーティン・スコセッシによるエッセイが寄稿されました。
そのタイトル「巨匠」Il Maestro は、『タクシー・ドライバー』Taxi Driver(1976年)や『アイリッシュマン』The Irishman(2019年)を撮ったこの監督ではなく、戦後に活躍したイタリアの映画監督、フェデリコ・フェリーニを指します。「スコセッシ、フェリーニを語る」という趣の記事で興味深かったのは、スコセッシがマエストロについて云々する本文より、現代における「映画」の位置づけを慮る導入部のほうでした。
詳細はリンクを辿ってもらうとして、要するに、スコセッシは、近年の映画は芸術ではなく「コンテンツ」(もちろん蔑称として)になってしまったと嘆いています。
私はいわゆるZ世代ですから、年長者の「昔はよかった」発言にただ同調することはできません。もうそういう社会になっちゃったんだから仕方ない。現代では、映画はコンテンツでありエンタメなのです。その証左に、ほとんど毎日、コンテンツという言葉で映画が語られたり、ニュースサイトの「エンタメ」タブなんかに映画が括られていたりする場面を目にします。
こうなると正直、入り口はスマホでもタブレットでもなんでもいい。問題はその先で、映画を畏れられるかにあるような気がします。
訳分からんけどなんだか凄い!というような感覚。
たとえば『乱れる』(成瀬巳喜男、1964年)のラスト・ショットがそうであるように、映画には、自分のコントロールが効かない、人智を超えた何かがあるのだと思っています。
映画は芸術であると伝えたいのです。

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