効率化は場合によっては悪

産業革命以降、労働時間は8時間が標準となりました。しかし、労働者の仕事量は依然増え続けています。
この背景には業務の効率化があるのではないでしょうか?
例えば今まで、一つの仕事を8時間でしていたのを、半分の4時間でできるようになるとします。それに従って日当は固定、労働時間は半分になれば、労働者は早く帰宅できて、余暇をよりたくさん過ごせるようになります。
しかし、人間というのは欲深い生き物なので、そう簡単ではありません。
仕事を4時間でこなせるなら、4時間でこなせる仕事をもう一つ従業員に割り当てます。そうするとどうでしょう、同じ日当で二つの仕事をこなしてくれて、仕事当たりの給料は半分で済みます。

つまり、定額働かせ放題のサブスクなのです。できた仕事への対価としての給料ではなく、拘束された時間に対しての給料なので、サラリーマンなど時給制の仕事に従事している人は、自身の生涯収入を計算できてしまいます。

あと、一つの仕事をより短い時間でこなせるようにプランニングし、今までなら8時間かかっていた仕事を4時間で、4時間を2時間でという風に時短化していけば、労働時間、日当は固定で、仕事の数だけ増やすことができます。
雇用する側としては、一日のうちにできる仕事の数が多ければ多いほど、相対的な日当は安く済みます。しかし、労働者側からすれば、自分たちの労働が安く買いたたかれているわけです。安く買い叩かれている上に、余暇は少ないため、働いても働いても、自身の成長には繋がらず、結局会社に身を売る日々を過ごす事になるのです。

ですから、人工知能の登場で労働時間が1日3時間とか4時間になるなんて言うのは嘘で、仕事を効率よくこなせる分、仕事の数が増えるだけで、労働時間が減るわけではありません。

では労働時間を減らさずに、働く人が満足のいく労働環境とはどのようなものでしょうか?
日給制、時給制の仕事では前述の通り、仕事の内容や量を問わず、拘束時間にのみ基づいて給与が支払われます。
これを、時間に対する対価ではなく、仕事の内容に対する対価とした場合どうでしょう。
それなら、働いた分が給料になるので仕事の質も上がるはずですし、自分の頑張りが給与に影響するので、仮に休んで給与が減っても納得出来ます。逆を言えば、そこそこの収入を得つつ、私生活も充実させるといった生活スタイルも可能となります。

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