小さな恋のアパートの唄

先日ラジオで、リスナーからパーソナリティーへの質問で、彼女と同棲するなら 、

①アパート  ②小綺麗なマンション  ③庭付きの一軒家

  どれがいいか、で①のアパート、と彼は答えていた。

『アパートの二人の同棲エモいんですよ。例えば俺が先に帰ってきたときに階段を上がってくる足音で、もしかしてアイツかな? なんて思って待っているあの時間とか。今日は足取り重いな、とか。なんかいいことあったんじゃないかな。今日のメシはコンビニでいいか、なんて言って二人でダルダルのスウェットと、ヨレヨレのTシャツで二人でなんとなく選んで、"結局一緒のになっちゃったね" なんて言って……。俺アパートがいいです』

あまりにもリアルだったので、彼は本当に同棲したことがあったのか。または大学時代の友達がそんな同棲をしていて羨ましいと思っていたのかもしれない。

大学時代、付き合っていたFとどちらから言うともなく一緒に小さなアパートに住んでいた。

私がFの家にそのまま住みついた感じだ。アルバイトで稼いだお金は一部家賃として渡していた。でも食事と水道光熱費は、半分払うと言っても絶対に彼は受け取らなかった。

大学4年の夏、そろそろ周りも就職も決まり始める頃、私はなんとなくとあるメーカーに内定が決まった。Fは頭は良かったが、役者希望で就職するつもりはなかった。Fの役者仲間では、企業に入社した人もいて、彼も身近な人の環境の変化に多少の迷いはあるようだったが、決心は固いようだった。

私が入社した後も一緒に住み続けていた。新しい仕事は、覚えることが多く必死で覚えてるうちに夏になった。春頃は定時で帰宅することが多かったのだが、だんだん慣れてくるにつれて残業をすることも出てきた。残業になるとFは必ず駅まで迎えに来てくれた。

たまに、メールしても返事がないときは一人で家に帰った。アパートについたらFはベッドに凭れて眠っていた。意に反して思わず眠り込んでしまった彼の寝顔に、なぜか少しの罪悪感が胸に拡がった。なぜそんな風に思うか分からなかったが、なんでもしてくれる彼に甘えきっていて、仕事中は全く彼のことを忘れていることに対して、だったのかもしれない。

一度だけFはどこかの会社に面接に行ったことがある。何をしてる会社かは忘れてしまった。彼のやりたいように任せていたが、ワイシャツにネクタイを結ぶ後ろ姿の背中がなんとなく物寂しげで、帰ってきたときに「やめた」となぜか晴れ晴れとしたした顔で部屋着に着替えているのを見つめているとき、不思議な安堵に満たされたことを覚えている。

二人だけの小さな箱の中のような暮らしは心地よかった。

外観は無機質な白と灰色のコンクリートで、生活もカラフルに彩られた色はなかったかもしれないが、冬はオレンジ色の温もりに満ちた中、身体を寄せあうようにして過ごした。Fは優しくて友達も多かったが、どこか世間を遮断したような尖りを持っていた。未来のことはきちんと二人で話したことはなかった。

二人の世界で暮らしているのは自由で、それでいて少し空虚だった。

ある日、仕事を思わぬところでミスをしそうになり、先輩に助けてもらった。先輩は私の2つ上で、外見は割りと地味で口数も少なくあまり話したこともなかった。仕事で助けられるという、経験したことのない、どちらかというとありきたりな出来事に頼もしい存在として私の意識に入りこんでくるようになった。仕事をよく理解もしていないのに飽き飽きしてきていて、なんとなく進めていることでミスを引き起こすのだと思う。

本来の一連の業務の流れと合理性をはじめて見たときに、それを身体に染み込ませていた先輩はふと大人に見えた。

それから先輩とは時々話をするようになり、たまたま観たいと思っていた映画が一緒だったことで、次の休みの日に二人で観に行くことになった。本当に流れのままだった。私は約束したとき一瞬Fのことを忘れていた。私はFのことが好きだったし、先輩と付き合うという気持ちは全く無かった。確かに無かった……と思う。Fは私が休みのときも基本的に芝居の稽古に行くことが多かったから、別にいいだろう、というくらいの気持ちだった。

Fに、土曜は友達と映画に行く、とだけ言ったら彼は一瞬だけじっと私を見て、分かったと言った。なにもかも見透かされていたような気がした。

映画は久しぶりだった。なんとなくだけど世間の中に混ざれた気がした。先輩といるとこんな気持ちになることが不思議だった。

帰宅したらFは居間で雑誌を眺めていた。

「ただいま」

一言声をかけたとき、こちらに背を向けていたFの肩が少し小さくなっているように見えた。

Fは知ってか知らずか、あの日以降も何も言わなかった。私はFは好きだったが、何も言わない彼に少し苛ついていたのかもしれなく、またそんな自分も嫌だった。

「私、あの日会社の先輩と会ってた。二人だけで」

Fは私を見つめたあと、すぐに目線を逸らした。

「……俺も、あの日劇団の女の子と会ってた」

私は思ったよりずっとショックを受けていた。自分が嫌いだった。彼が無理に私にそう言ったことは分かっていた。

私は、この本当に優しい男を傷つけた。それは、もうこの小さな二人だけの箱の中にいることはできない、と以前からぼんやりと思っていたことをその時はっきりと思った。


今が楽しいよ、前に戻りたいなんて一度も思わない、という彼とは私はいつも意見が合わなかった。今でもきっと合わない。

できるならあの頃に戻りたいって、私は言って今後も生きてく。


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※※ ちょっと昭和を感じさせる世界観が好きな彼、エモいなぁ……と思っただけで、全くもって私の実体験ではありません。



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