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米寿を迎えた父をみて思うこと

父が今年米寿を迎えた。
父は緑内障が進行し、視界が欠けて視力が弱い。
歯も悪く柔らかいものしか食べられない。
耳もかなり遠くなった。大きな声で話さないと聞こえない。
周囲から見ると怒鳴っているように見えて、大きな声を出すのは嫌なのだが仕方がない。

人は歳を重ねると「〜ない」と、引き算が多くなってくる。
思考もマイナスになりがちだ。

しかし、「〜はまだできる」と+−0のこともある。また努力をすれば、足し算になることもあるかもしれない。

その『0』や『1』にも満たない『0.5』あたりの喜びに気づくことが、人生の最終章を迎えるにあたって、とても大事なことだと思う。

父も引き算は多いが、体は年齢のわりには元気だ。

たまに家庭菜園で採れた見映えの悪い野菜などを貰ったりもする。
その中には明らかに痛んでいるものもあるが、視力の弱い父には、それが分からない。

僕は痛んでいようが、どんなものでも「ありがとう!」と言って貰う。

「ありがとう!」と言われて父も喜ぶ。
僕もその笑顔にまた喜ぶ。

野菜よりも、いくつになっても、子どものことを想う親心をもらって帰る。
親というのは、ありがたい。

父は視力は弱いが、どこに何があるのかをしっかりと記憶しているので、今のところはひとりで生活するのに大した影響はない。


頭の方は感心するほど、しっかりしている。
僕が訪れる約束の前日には、きまって確認の電話がかかってくる。
忘れているのではないかと、要らぬ心配をして電話をかけてくるのだろう。

しかし最近は、僕の方が忘れていたりもするから、信用されていないのかもしれない。


また父はテレビを観ない。ラジオも聞かない。本も読まない。
ただ偶に新聞を買って読むくらいだ。

視界が狭いので、新聞を顔に覆って一文字ずつ目で追うようにして、読んでいる。
新聞は目が疲れるようだが、この前は大好きな阪神タイガースが、優勝した記事を食い入るように読み、とても喜んでいた。

ある日、
「テレビも見れない。ラジオも聞こえない。本も読めない。夜はやることがなくて、つまらないんじゃないの?」と聞いたことがある。
すると父は、、、

「夜は民謡や童謡を歌っていれば、楽しいから大丈夫だ。」とひと言。

そうであった。父はいつも鼻歌を歌っている。
昔、ある宴会の余興で、童謡を可笑しな替え歌にして、会場のみんなを笑わせていた。

しかし、今は母も亡くなり、笑わせる相手はひとりもいない。

あるとき、父からその替え歌ではないが、なるほど!という話を、微笑みながら僕に聞かせてくれた。
それは、、

お年寄りになったら

『教育場所』と『教養』

この二つがないと、残り少ない人生を楽しむことができない。

その意味するところは、、、



『今日、行く(教育)場所がない』

『今日、用(教養)がない』

何処からか聞いてきたのか、自分で考えたのかは分からないが、なかなか面白いことを言った。
父が冗談をいったのを、久しぶりに聞いたような気がした。
そのことが嬉しくて、可笑しさに拍車を掛けて、バカ笑いをしてしまった。

僕も娘たちに親父ギャグを言う時があるが、あまりウケていない。
僕のそれは、まだ父のレベルには達していないということなのだろう。


父から聞いたこの話は、僕がおじいちゃんになったら、いつか娘たちやまだ見ぬ孫たちにも話してやろう

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  

今日は用がなくても、用事を作ることも大切だ。

散歩でもいい。

道端で向日葵のように、眩しくても背けず、真っ直ぐ前を見る雑草の花。
どこか誇らしくて逞しい。

ふと川を見ると、名も知らぬ鳥の白さが際立った。
視線の先には獲物がいるのだろうか。
生きるためには、食べなくてはいけない。
それは僕も同じだ。

今日家族が食べる分だけあればいい。


凪の海をみて、心が少し穏やかになったような気がした。
ヒトになる遥か昔、みんな海に住んでいた。だから海に惹かれ、そのような気持ちになるのだろう。

人類が海のような広くて深い心になれたら、世界が紛争のない凪になるのかもしれない。

※画像は地元の図書館ではありません。

図書館へ寄ったが、読みたい本は見つからず、ただウロウロと徘徊をしていた。

無知な僕はいつも迷ってしまう。
ここは知識の大海だから仕方がない。

いくつになっても、学ぶ姿勢が大切だと思う。

結局、本の香りだけを胸いっぱいに味わい、何も借りずに帰路についた。
次はちゃんと借りる本を決めておこう。

大した用事がなくても、今日という大切な一日に変わりはない。


僕もこの先、高齢者の仲間となる。
もうそんなに遠くではない。

若い時のような騒がしさは、お年寄りには似合わない。
凪のように、いつも心は穏やかでいたい。
だから周りには心優しくありたい。


歳を重ねて体は錆びれても、心はいつも磨いておきたいと思う。
心は鏡みたいなものだから。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


米寿を迎えた父をみて、あらためて思う。

父は、目や耳が不自由であっても、今できることの中で喜びを見つけて、人生を楽しんでいるように見える。

それが息子としては、とてもありがたくて嬉しく思う。
先に逝ってしまった母の分まで、元気で長生きしてほしいと願う。

僕もいつかそのような時がきたら、父のようでありたい。

たまには夜に、父の民謡を聞きにいってあげよう。


どんな状況の中でも、『今』生きているという喜びを、生活の中でいつも感じられたら、いいなと思う。


ー了ー


最後までお読み下さり、ありがとうございました🙇

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