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『琴となり 下駄となるのも 桐の運』 最後の大名

この人物は上総請西藩 3代藩主 林忠崇 (はやしただたか)【1848〜1941】
幕末から昭和まで、激動の時代を生き抜いた「最後の大名」であります。

web記事を見ていたら、タイトルの句が映り、心動かされました。

そして、なにかに取り憑かれたように、林忠崇の生涯を調べてみました。

幕末、明治維新は歴史の中で1番好きだったのに、なぜ今まで知らなかったのか。自分の無知を恥じました。

そこで、ここに記しておこうと思い立ったのです。

幕末の時代は多くの英傑を輩出しています。
坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作、板垣退助、木戸孝允、伊藤博文などあげれば、きりがありません。

明治維新を成し遂げた、勝ち組の志士たちばかりが英雄視されますが、敗れた旧幕府側にも英傑はいるのです。

その一人で、もっと脚光を浴びていい人物が、この林忠崇だと思いました。

第二次世界大戦の最中に、まだ江戸時代の大名が生きていたことにも驚かされますが、その生涯を探るとその生きざまに深く感銘を受けるのです。

林忠崇は江戸末期の1848年7月28日、上総国請西藩(現在の千葉県木更津市請西)の藩主・林忠旭の五男として生まれました。

請西藩は一万石の小さな藩でしたが、林家は徳川家とは縁の深い家柄でした。(詳細は省きます)

請西藩2代目藩主・叔父の林忠交の急死により、忠崇が3代目藩主となったのは20歳のときでした。

忠崇は幼少期から文武とも才能を発揮し、将来は幕閣に入るだろうと期待された逸材でした。

忠崇の前途には明るい未来が約束されていましたが、1867年10月に人生を大きく狂わせる、ある出来事がおこります。

「大政奉還」です。ときの15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上したのです。

さらに、年が明けると新政府軍と旧幕府軍との間で鳥羽・伏見の戦いが勃発。忠崇は、旧幕府軍が賊軍となって敗走したことを知ると、徳川家の恩に報いるため、旧幕府軍支持の決意を表明するのです。

そんな忠崇を慕い、佐幕派の部隊「遊撃隊」が請西藩にやって来ます。徳川家再興のために力を貸してほしいと懇願され、忠崇は快諾するとその後、周囲を驚かせるある行動をとったのです。

 忠崇は家臣一同を集めたうえで、自身は今後、脱藩(武士が藩を脱出して、浪人となること。当時、臣下が主家を見限ることは許されないことで捕まれば場合によっては死罪となった)して、遊撃隊と行動を共にすると宣言したのです。

藩主自らが脱藩するなど、前例のない、ありえないことです。

坂本龍馬や中岡慎太郎が志士として、土佐藩を脱藩したのとは、わけが違います。

忠崇は、佐幕派となれば、領内に新政府軍が押し寄せ、領民の被害は計り知れないことになることを危惧し、それを回避するために自ら脱藩したのです。

この時のことを、後日以下のように述懐しています。

「請西を出る時は、藩主たる私自身脱藩届けを出したんですわ。これには領民に迷惑をかけまいとの気持だったわけだが、考えてみると藩公自身の脱藩という例はまずありますまいなあ」と笑われました。

林勲 編『上総国請西藩主一文字大名林侯家関係資料集』

藩を去るとき、大勢の領民がその決断に感激し、沿道に土下座して、その武運を祈り見送ったと言われています。

しかし新政府は戊辰戦争が始まると、忠崇の脱藩を反逆行為とみなし、林家は取り潰しとなります。

その後、忠崇は奥羽列藩同盟の諸藩と共闘を図るため奥州へと向かいます。仙台藩に入ってから、米沢藩が新政府軍に降伏。さらにその数日後には仙台藩までもが降伏を表明しました。

事ここに及んで忠崇は降伏と武装解除を決断するのです。
そのように決断をしたのは、徳川家の存続が許されたということを聞き、徳川家の存続が叶った以上、尚も戦さを続けるのは、かえって徳川家に対しての不忠になると考えたのです。

降伏後は切腹も覚悟しましたが、蟄居となりました。その後、旧家臣たちの運動により、林家は士族として家名復興が認められました。しかし、家禄は300石と生活に困窮します。

農民として暮らしたり、寺院に仮住いしたりして、その日暮らしをしていました。

収入が無くても生活出来たのは、庶民として各地に散らばっていた旧家臣たちが忠崇を慕って、時折会いに来ては、お金を渡していたからです。

それから印刷局に勤めたり、日光東照宮で神職になったりもしましたが、いずれも長続きしませんでした。

その後は妻チエに先立たれ、晩年は次女ミツとアパート経営に乗り出し、娘と一緒に暮らすことになりました。

そして、東京都豊島区のアパートが終の住処となったのです。

最後の大名として取材を受け、記者に辞世を求められた際、「明治元年にやったから、今はない」と答えました。

降伏し、切腹を覚悟して21歳の時に詠んだとされる、その辞世の句が

「真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ」

若い忠崇の覚悟と忠義の心に胸が打たれます。

さらに、それでもなお記者に辞世の句を求められ、タイトルの

「琴となり 下駄となるのも 桐の運」

と詠んだのです。

琴も下駄も同じ桐の木が材料となっています。

琴は優雅な音色を奏でます。
下駄は常に踏まれて、削れていきます。

運が良ければ琴となり、運が悪ければ下駄となる。という意味かと思えますが、私はそうではないと思うのです。

琴は優雅ですが、庶民の普段の生活には必要のないものであります。

また下駄は生活になくては困るものでした。

琴と下駄の優越などつけるものではありません。価値観は人によって違うものであり、どちらも価値のあるものです。

人生は、どちらの運に転んでも、それを受け入れながら、自らの運命を切り開いていくもの。ということを教えているように思えるのです。

大名として生まれ育ち、徳川家の恩に報いるため必死になって闘い、信義を貫き通した生涯。

戦いに敗れてからは、農民の身分となり、職を転々としながら、94歳の天寿を全うしました。

忠崇だからこそ詠めた、実に感慨深い辞世の句です。

領民のため藩主自ら脱藩した、器の大きさ。
最後まで徳川家の恩に報いるため、尽くし切った誠の心。

幕末の英雄であり、ラストサムライであります。

その精神に畏敬の念を覚え、生きざまに学びます。

人生は、山あり谷ありです。楽しいことばかりではありません。むしろ辛いことの方が多いように思います。

人生どのような境遇に立たされても、自ら運命を切り拓き、最後まで諦めずに、人生を全うしたいものです。  

-了-

最後までお読み頂き、有難うございました🙇


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