#2 幼少期と小学生

一人っ子は慣れたもんだった。
親父やお袋と遊んだ記憶はなかった。
親父は自営業でそれこそ中学生終わりまでは、
仕事一筋。何となく親子3人、川の字で寝ていた記憶だけ。
とにかく幼稚園も小学校も遠くて小学生には酷な距離だった。歩ける距離ではない。
当時20円持たされて、歩くのがイヤになったら電話。 クルマで迎えに来てもらってた。
親父の会社の従業員に。
幼稚園はほぼ、送り迎えだったと思う。
小4か小5まで遊ぶ友達は居なかったと思う。
小5かな。
やはり野球、ピッチャーが好きで壁に向かって投げていた。それしか記憶にない。
4歳か5歳に三輪車でドブ川に突っ込んで怪我した記憶はある。
10歳~12歳は記憶がそれなり残っているので、噛み砕いて書いて行こうと思う。

親父の自営業は順調だった。それなりに金持ちだったと思う。小学5年生で町内会の友達、何がきっかけかは分からず、下は2年生から上は6年生でキレイに揃っていた。
今になってみれば、ウチの親父は自営業だが、彼らの親は転勤族、中学、高校ではまた転勤をしていた。中学に入ると彼らと遊んだ記憶がない。
結局は5年生、6年生の2年間だけの付き合いだった。
町内会の野球チーム、リトルリーグ。
リトルリーグでは戦力ではなかった気がする。
町内会は3番ピッチャー。それこそギリギリ9人の野球チームだった笑。
リトルリーグでは上には上の現実を知り、中学では野球はしていない。
好きだけでは続かなかった。レベルの違いを見せ付けられ、諦めていたのだろう。
よく遊び、記憶に残っているのは3家族の子供達、
上が1人、6年生、3年生、2年生の3兄妹、5年生は自分1人、4年生が2人2家族、それぞれ妹、弟がいた気がする。
女の子は2人存在していたが、遊んだ記憶は消えている。 1番距離が近い下の4年生と毎日のように遊んでいたのだろう。
それしか記憶が残ってない。所謂、それなりに教育やルールが厳しい家庭と緩い家庭。緩い家庭の友達と遊んでいたという事になる。

母親と。
当時は母親と週末になれば、母親の実家に帰っていた気がする。親父とそりが合わないのか、月に隔週のペースで母親の実家へ。
確か5人兄妹の4番目、兄が1人の4姉妹の3番目、
母親を除く3姉妹は母親の実家近くに嫁いでいて、
そんな寂しさもあったのか、かなりの回数、遊びに行ってたと思う。
免許もなく、電車も嫌いで往復タクシーを使い、
片道1万円する中、隔週で実家に帰っていたのである。
実家は遊ぶ相手がいないため退屈、3姉妹の家はそれなりに行ったと思うが、従兄弟もまた、1年ずつ学年が綺麗に揃っていたと思う。
1つ上か1つ下の従兄弟はよく遊んだ記憶がある。

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