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訳あって出戻り

 大人の事情により、東海エリアから、関西某所にある実家にで戻る。
実家は築30年の田舎建の一軒家。壁は断熱材がないのか夏暑く、冬は寒い。
出戻りの私は第一子だが、家の中でも異質な存在。

 当然浮いていて、序列は、飼い犬より、低い。
母は、初手否定から始まる典型的な日本人。
父はこの家を建て65歳定年までにローンを
完済させ、本来なら堂々としていればいいものの、何故か母に頭が上がらず、虐げられ主人としての面子などない。


「ああ。もう嫌。」が口癖の母。
それを黙って聞いているだけの父。
嫌なら母が出ていけば良いのになぜか父が
申し訳無さそうにしているのを傍目に見て控えめに言って不快だった。
妹がいるが性格は真逆、話が噛み合う訳もない。若い頃は相当ヤンチャなギャルで反抗期が
すざまじかった。
父はそんな妹が心配で電話でしきりに気にしてた。


当の私はと言うと部外者だった。と言うのは言い過ぎかも知れない。
でも両親からは、物理的に不自由なく育ち、飢えや、渇きは無かったが、愛情が不足していた。その代わり、祖父母が両親がわりだった。  

 祖父母は自分にとって誇らしい存在だった。祖父は3年ほど前に他界。有名人顔負けのお見送り、及び葬儀には沢山の花籠があったものだ。

 祖母は小学生の頃、授業参観は、地獄の所業。針のむしろに座らせられるとてもじゃないが生きている心地がないくらい嫌だったが、
祖父母参観は、とても誇らしい気分だった。
女優にいてもおかしくないくらい、華やかで、品があり、人当たりが良く自慢の祖母だった。


しかし、その祖母が母の手により老人ホームという、姥捨山(うばすてやま)に追いやられた時は驚き、怒り、呆れという感情が入り混じった何ともいえないやるせなさがあった。

 私を我が子のように世話してくれた祖母。しかし時は経ち、それぞれの役割が変わると用済みであると、言いたい事は山のようにあった。
しかし悔しいが、それらを非難する権利は私は持ち合わせて無かった。
何故ならその間祖母を世話しているのは母だからだ。

 一国独裁制。我が家の方針だ。独裁者は
母。自分こそが全てであり、方針であり、規則だった。
自分と違った思想を持つ人間は、異端者であり、罰則の対象だった。
罵声は勿論。体罰。自動車に閉じ込められるのも当たり前。
私が仮に正論であっても謝罪の言葉なんてない。
彼女の口から「ごめんなさい」の一言を聞いた記憶がない。

続きはまた後日。正直今仕事を探してる。しかし年齢や、体力、精神面でもくすぶっている。

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