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「フリージアの少年」が「エイリアンズ」になるまで

「フリージアの少年」だったころ

海岸線の美しい田舎街に育って14年、私は着実に中二病に罹患しつつあった。
父は非常に読書家で、私など足元に及ばないほどの語彙を持ち、様々な言葉で世間への不満を語っていた。
尊敬する父だが、子供の眼からみても「ひねくれた大人」だった。
(だった、と書いたがバリバリ存命です、ご安心下さい)

そんな父と、常識人だがやはり世間に懐疑的な母に育てられ、ひねくれ厨二になるのは約束された未来だった。

私のツイッターアカウントを知る人にとっては既知かつ「またそれかよ」というところだろうが、
中学生期にTHE YELLOW MONKEYに傾倒したことも中二病に拍車をかけた。
NHKで放送されたLIVE『SPRING TOUR』のドキュメント番組。
ライブ終盤の『甘い経験』という曲中で、完全に「ガンギマリ」状態のボーカル・吉井和哉が、おなじみの謎ダンスをひとしきり披露したのち、客席へダイブした。
横浜アリーナで、プールに飛び込むように、観客の頭上に全身を預けた。
吉井和哉を観客がむきだしの腕で触れ掴み、彼ら彼女らの幾ばくかの理性と、警備スタッフの全力アシストで吉井和哉は無事ステージに帰還した。
その後また、数十秒の歌唱を経て、観客席に当然のように分け入った。

子供心に「やべぇ大人がいるもんだ」と思ったし、「ロックバンドってこんなに自由なんだ」と思ったし、「横浜アリーナってこういうことしてもOKな場所なんだ」(ちがいます)と思った。

吉井和哉のカリスマ的扇情的な魅力は心に深く深く刻まれ、休みのたびに録画したその映像を観返した。

※いわゆる「推し」がギターの菊地英昭であることは長くなるので触れない。

イエローモンキーに傾倒したことで、私はほとんど同世代女子との交易を放棄することになってしまった。
2023年にKing & Princeの髙橋海人にハマり、いまさらになって痛感するが、「ジャニーズ(以下、J)」という通貨の女子界での使いやすさ、$並みである。1Jのやり取りで相手と楽しく好きなものの話ができる。
中学卒業からずいぶん、本当にずいぶん経ってジャニーズを好きになり、Jのおかげで女性との会話量が格段に増えた。

対して、私の十代期における「イエローモンキー(以下、Y)」という通貨の、使い勝手の悪さと言ったらなかった。イエローモンキー直撃世代とは数年ズレており、彼らも活動休止〜解散していた。
それゆえ、1,000Y積んでも、女子との趣味トークはままならないどころか、積めば積むほど引かれた。「椎名林檎(SR)」と両替してギリ凌いだ。

東京に行けば、人の多い都会に行けば、いつか「Y」でやり取りができるんじゃないかと、東京への憧れを抱いていた。
なお、それは数年後実現する。

さて、そうしてひねくれきった心で、イエローモンキーのCD・DVD(当時はVHS)・関連書籍を年代を遡りながらすこしずつ集めていった。
中学2年生の体育祭の翌日、2ndアルバム『未公開のExperience Movie』を入手し、畳の部屋で寝転がって聴いた。
『未公開の~』発売当時、’93のイエローモンキーは全然売れていなかった。
アルバム全体にグラムロックへの心酔を色濃く残していて、これでメジャーで売れようとしていた吉井和哉はやっぱり常人ではないと思う。
直接的な単語がガンガンに登場する、男と女の倒錯的なセクシャルな曲続きで、
「大人になったら私もこういう恋愛するのかな…」と考えていたが絶対に違うので本当に勘違いしないでほしい。君の未来には、至って普通のありふれた恋愛が待っているよ。

その『未公開の~』の10曲目、『フリージアの少年』を聴いた時、生まれて初めて音楽を聴いて涙が溢れた。

この曲は、17歳の少年・吉井和哉のロックの舞台に抱いた憧れと、その末に自らもギラギラとした厚化粧を施し舞台に立つまでを描いたものである。

私はがっつり、自分を重ねてしまった。
ロックを奏でることはできないし、もちろんロックスターになる気は毛頭ない。
そういうことではなく、
女子界での交易を不自由にしてもイエローモンキーに傾倒し、「だれか私をわかって」と心の中で叫んでいた自分。その反面
”判らなくていい シビアだと泣いていた”。
吉井和哉がどんな意図でこの詩を書いていたとしても、これは私だと思った。
(十数年後、この曲をLIVE『メカラウロコ・27』で生で聴けたとき、自分の人生のすべてを肯定できたような気がした)
私の少女期の1曲を挙げるなら、間違いなくこの曲だと思う。

「エイリアン」だったころ

1年後、地元の進学校に滑り込みで入学した。
小論文と面接、内申(ほぼ部活動歴)のみの推薦入試というチート的手段で入学した私は、当然のごとくクラスいちの落ちこぼれだった。
聡明なクラスメイトは落ちこぼれの私にも分け隔てなく優しく、またオタク気質の子がほとんどだったので、「J」を持たずとも、平穏な付かず離れずの関係で居られた。

それでもやっぱり、不自由な「Y」という通貨のユーザーであることに変わりはなかったし、自分が本当に好きなものについて語ることは、自分の中の大切なものを傷つけることだと思っていた。

そして、全然脈絡もなくm-floにハマった。
これは決して、戦略的にハマったわけではなく、本当にちゃんと好きだったし、今でも好きで聴いている。
その当時m-floは「Loves」というかたちで様々なアーティストとコラボしていたため、派生していろいろなアーティストを知ることができた。m-floには本当に感謝している。
m-flo作品はRemix曲も多く、そこからさらにアレンジャーやサウンドプロデューサーという存在を知ることができた。

そこで出会ったのが、冨田ラボだった。
私が説明するのも烏滸がましいくらいの超有名サウンドディレクターでありプレイヤーでもある。代表作として挙げられるのがMISIAの「Everything」か。そして「キリンジ」のプロデューサーでもあった。

こうした流れでキリンジの『エイリアンズ』を聴いた頃には、もう20代になっていた。


『フリージアの少年』の衝撃とは違う、「ああ、これは間違いなく名曲だな」というじわりとした感慨があった。
既に世の中で高い評価を得ている作品だからかもしれない。
そしてやっぱり、自分を重ねた。
作品を評価する時、共感だったり自己の投影だったりという軸で語るのはめちゃくちゃダセェと思っている。思ってはいる。
でもさっき『フリージアの少年』でやっちゃったね。
なので一応歌詞に沿って解釈していく。
『エイリアンズ』の歌詞の解説など世の中に溢れかえっているので、今更すぎるし恥ずかしいが…。

https://j-lyric.net/artist/a001d21/l009780.html

登場人物たちの背景。
冒頭4行は、私の故郷のような田舎街ではなく、首都圏郊外だろう。
曲中「僻地」とあるが、これを真に受けてはいけない(真顔)。
ガチ僻地にこんな光景はほぼないし、まず敬愛する『エイリアンズ』の舞台にするならガチ僻地はやめてという個人的願望である。
人間社会における端の端という、物理的でない意味での僻地と捉えておく。

そして、「月」と「太陽」の存在。
この曲での月は、2人の額を撫でる優しさ、そして憧憬の対象である。正確には憧憬の対象は「月の裏」にあるどこか。
当然月が見えるのは夜だけで、「暗い夜に寝付けない2人」と言いつつ、2人にとっての憧れである月を見られる時間。つまり夜が2人の感情表出できるフィールドであると言えるだろう。

そして終盤に1回だけ登場する「日の出」、つまり太陽である。
普通JPOPに限らず太陽はポジティブな存在だが、この曲の中では2人の世界(ラストダンス)を途絶えさせるものとして描かれている。
ちなみに明るい太陽を「暗い」ニュースを伴うものとして、対比する表現にしてるのおしゃれでめっちゃ好き…

「エイリアンズ」とはキミと僕であるのは当然として、じゃあなぜエイリアンズなのか?というところだが、これはもう詩的表現の定石と推測の世界だけど、「この世界への馴染めなさ」によるものだろう。
当たり前すぎるが再確認すると異星人=完全なる異物だし、太陽=ポジティブというイメージを反転させ、月に希望を求めているという、世間的常識からの逸脱も、世界つまりは地球とのズレを感じさせる。
地球外から来た(ようだ)から、馴染めない。
そう思うことが、そして月に憧憬を抱くことが、自分たちの馴染めなさを納得させる救いなのだと思う。
禁断の実=知恵の実やろ、というのは個人的な確信と偏見だが、それを食しては自分たちがエイリアンズである事に気づいちゃったり噛み締めたりしているって感じかな。

拙い解釈は以上です。

で、どこに自分を重ねたかと言うと、当然「己がエイリアンである」ということです。

大人になり、薄々気付いていた。
自分の生きづらさ、世間とのズレは通貨Yのせいなんかじゃないと。
人として至らないこと、自意識過剰であること、傲慢であることは大前提として、とにかく自分の思うところを「話し言葉」にすることが苦手だった。
端的に言うと会話が苦手だった。
自分の思うところは、正確に具現化しなければと思っていたが、それをするには時間がかかりすぎる。
そしてそのうちに会話は進んでいく。

また、語りたいことの熱量が急にMAXになって、相手を置いていくこともままあった。
この文章見て。
Twitter(あ、Xか)のフォロワーから「エイリアンズの感想を聞きたい」と言われただけで、自分の中学生時代から、しかも家族までゲスト出演させて、書いてるよ。
ここまで求めてなかったよね。ごめんね。

そんな訳で、エイリアンズを聴いたときは
「あ〜私もエイリアンだわ…」と思った。
そして、どこかに同じ星から来たエイリアンが居て、「エイリアンズ」になれるのかもしれないと思っていた。

そしてエイリアンズになる

エイリアンはなかなか現れなかった。
不思議なことに、お付き合いしていた男性たちは素晴らしい真人間だった。
友達がたくさんいる人が多く、あの、夜に突然「友達と飲んでるから来なよ!」っていうやつも度々経験した。
ちゃんと対応してた私、古の言葉で言う偉杉内。

それと並行して、中学からの友人の男と、年2回盆と正月に2人で飲んでいた。
そう、後の夫である。
初デートで4時間オードリーANNを流したあの男。

彼は、めちゃくちゃ無口な男だった。
義母によると、小学6年生まで声を上げて笑ったことが無かったらしい。
まぁそれはだいぶ誇張してるだろうが、大学以降はほんとに無口だった。
「俺、その場に3人以上居たら黙ってていい権利あると思ってる」と言っていた。
そんな権利はない。

お互い映画や音楽(イエモン含む)アイドル等趣味嗜好が合うということで定期的に飲んでは居たが、無音時間と会話時間がトントンという異様なサシ飲みが毎回だった。
夫的には「今日もたくさん話せたな…」と思ってたらしい。つおい。

そういう飲みを7~8年重ねて、徐々に打ち解けた。
そう、何と我々は10年間人見知りをしていた。
急に飲みの時会話が弾むようになった。
そして、会っていない間は、次回会った時に話したい好きなエンタメの情報を書きためるレベルまで来た。

10年間のなかで唯一といえるだろうか。
2人とも恋人がいないタイミングが来た。
その時に思った。
「他の人と結婚したら、この人と2人で会うことは出来なくなる。まだまだ話したいことがあるのに。」
そして衝動的に夜中にLINEでプロポーズして、結婚に至りました。

交際中、ランチに入った店で、たまたま「エイリアンズ」が流れた。
その時初めて気づいた。
自分の好きな物の話には熱量を注げるけど、それ以外ではほとんど会話のスイッチが入らず、しかもあんまりそれに気づいてなくて…この人がエイリアンだったんじゃん、と。
感情の波が一気に押し寄せた。

「わ…私この曲めちゃくちゃ好きなんだよね……」
「へー、俺知らんわ」

そこは知っとけー。
ともかく、私はあまりにも近くにいたエイリアンを見つけ、「エイリアンズ」になれたのだ。

「自分たちはエイリアンズである」その思いは夫婦になってますます強くなった。
平日でも、好きなエンタメの話なら1時間でも2時間でも話し続けられる。
映画を観たあと、作品の背景を調べてそのメッセージをあーだこーだと推測する時間も楽しい。
夫になら好きな物の話は何でもできる。
地球語に変換しなくても、会話ができる。
生きづらさに変わりはなかったが、家の中に自分と同じエイリアンがいる、というだけで心は救われた。
彼が死んだら私は壁に話すしかなくなるので、絶対長生きはしないと決めている。
そのためにめっちゃコーラを飲んでいる。
コーラおいしい。

髙橋海人、エイリアン説

そもそもこのnoteを書いた理由が、Twitter(X)のフォロワーさんが「King & Prince髙橋海人に『エイリアンズ』を投影しちゃう」(意訳)と伝えてくれたからである。

これに関して私も言いたい。
ドラマ『だが、情熱はある』を経て髙橋海人にズブズブにハマった頃、私は彼に「こやつエイリアンの香りがするぞ?」と思っていた。
彼のゆっくりした口調や、会話のタイミングの絶妙な噛み合わなさは、自分の脳内世界を地球語に変換するまでのタイムラグによるものでは無いかと。
便宜上Twitterでは「海人語」と呼んでイジってる風になってしまっているが、これはマジで言っている。

それが確信に変わったのは、『KinKi Kidsのブンブブーン』で「人間と喋るのが苦手」と言っていたのを観た時だ。
分かる…分かるぞ……君も来た星が違うとはいえ、エイリアンなんだな…。心の握手をしたかったが、アイドルと一般人なので、心の握手会開催に留めた。
予防線張っとくが、客観的に見て確信する根拠弱すぎだろ、というご指摘はごもっともだ。
誠に申し訳ないが、「オタクってそういうもんじゃん」と開き直るしかない。

一応の確認として、Twitterで「髙橋海人 エイリアンズ」で検索した。

目眩がした。
髙橋海人は、『関ジャム』で「『エイリアンズ』が好き」(或いは、評価している)と語っていた。

勝手な確信が現実に変わった、いや、そもそも現実だった。
1番に来た感情が「私すごすぎん?」だった。
推しの選球眼がヤバい。と思った。
イヤ、落ち着いて、1番すごいのは髙橋海人だよ?
エイリアンでありながら、地球人から圧倒的支持を得て愛されてるんだよ?

興奮してしまったが、髙橋海人が本当にエイリアンなのか、『エイリアンズ』にどれ程自分を重ねているのかは全く分からない。
しかし彼が節々で見せる生きづらさのような、葛藤のようなものが私には愛おしくてたまらない。
もしエイリアンなのだとしたら、故郷の星への憧憬をずっと持ち続けてほしいし、いつまでも地球で暮らす事への違和感を持ち続けてほしい。
それが彼の捉えどころのなさや、俺ってなにものなんだろうという悩み、そして魅力の源泉になると信じているからだ。

ここまでも大概オタクの戯言だったが、これ以降は戯言を超えてファンタジーの世界に突入する。
着いてこられない人はそっ閉じ推奨だ。

彼はきっと違う星から来たスターなんだと、私の中の中二女子が叫んでいる。
デヴィッド・ボウイの名盤に『ジギー・スターダスト』というコンセプトアルバムがある。
異星から来た架空の男(?)がロックスターまで上り詰め、凋落するまでの物語が全体を貫くアルバムだ。
そして、これこそ吉井和哉が憧れ「僕はデヴィッド・ボウイになるためにTHE YELLOW MONKEYを結成したと言っても過言ではない」と言わしめた作品なのである。

偉大すぎるデヴィッド・ボウイの持つ、セクシャルな魅力や激しいカリスマ性が髙橋海人にある、とは流石に言えない。
世界のデヴィッド・ボウイだからね。

しかし髙橋海人がもし地球に降り立ったエイリアンだとすれば、それはジギーのごとく、鮮烈に登場し人々を魅了するスターだ、と信じてやまない。

イエローモンキーに恋焦がれ、エイリアンであることを自覚させられた私が、長い時を経て髙橋海人に憧れを抱くのは、必然だったのかもしれない。

Fin

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