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57回目 "Midnight in Dostoevsky" by Don DeLillo を読む。親しい大学生2人の歩きながらの会話に魅せられたもので。

つい先週まで知らなかった作家ですが、たまたま読み進めていて引き込まれました(きっかけについては前回投稿から推察頂けます)。日本語ウィキペディアから、ドン・デリーロが現在 83 才くらいの米国作家とだけ知識を得ました。しかし、それ以上はこの短編を読み終えるまで調べたりしない積りです。

この短編は The New Yorker 誌のサイトから入手できます。
(公開する Study Notes に於ける Page No., Line No. の表記は、このサイトの文章を写真画面を印刷から除外するモードにて、かつ短編全体が 18 pages, 第 18 ページには短編最後の 2 行が印字されるように調整し印刷した冊子を用いています。 )

1. 心ひかれた会話原文

所属する大学近くの田舎町の道路を散歩中の二人です。凍り付いた雪の道を歩道からより歩き易そうな車の轍に移動したりしながら 2・3 メートルの距離を開けて歩いています。一戸ずつが広々とした敷地に点在しているようですが、道で出くわすような人影は殆どありません。マイナス 9 ℃前後と寒いのです。曇っているも雨は降っていません。この後、出席する授業があるのかもしれません。このところの 10 日間は特に頻繁に二人揃って屋外・近辺を歩き回っています。この日、二人は別々に大学敷地の外を歩いている時に、偶々出くわしたのでした。この二人は語り手の「私」と「Todd」です。

[原文 1]I saw Todd, long-striding, and pointed. This was our standard sign of greeting or approval -- we pointed. I shouted into the weather as he went by.
"Saw him again. Same coat, same hood, different street."
He nodded and pointed back, and two days later we were walking in the outlying parts of town. I gestured toward a pair of large trees, bare branches forking up fifty or sixty feet.
"Norway maple." I said.
He said nothing. They meant nothing to him, trees, birds, baseball teams. He know music, classical to serial, and the history of mathematics, and a hundred other things. I knew trees from summer camp, when I was twelve, and I was pretty sure the trees were maples. Norway was another matter. I could have said red maple or sugar maple, but Norway sounded stronger, more informed.
[和訳] 私はトッドの姿、大股で歩く姿、に気が付き指さしの合図を送りました。この合図は二人の間に確立していた合図であり、出くわしたことを歓迎している旨の意思表示でした。双方が指さしをしました。トッドが横を通り抜ける瞬間に私はその日の天気(彼というよりその日の大気)に向けて大声を上げました。「あの男をまた見たよ。同じコート、同じフード、別の道でね。」 トッドは指さしを返しました。そんなことがあった二日後のことですが、私たち二人はこの村のはずれを散歩していました。私は大きな二本の木に気が惹かれ指さしました。枝は葉をすっかり落として裸です。空に向かって 50 ないし 60 フィート(20 メートルほど)、高く聳え立っています。
「ノルウェイ・メープルだよ。」と私は声を出しました。
トッドは答えません。トッドにとってこんな単語に価値がないのです。木の区別、鳥の区別、野球のチームの区別には価値がないのです。彼の関心は音楽、クラシックからテレビやラジオに流れる音楽、数学の歴史、その他にもいろいろあるですが、別の方に向かっています。一方、私は木の区別・名前を12才の時に参加した夏のキャンプで学んだのです。この日に見た木がメープルであることに結構な自信がありました。ノルウェイと特定したことはこの自信とは別の話です。正直言って目にした木はレッド・メープルであったかも、あるいはシュガー・メープルであったかも知れません。ノルウェイと言うと聞いた人、そして私は特別な木という印象を持つのです。私が事実以上に物知りに聞こえるのです。

Lines between line 28 on page 4/18 and line 2 on page 5/18,
"Midnight in Dostoevsky" by Don DeLillo

この部分、私自身を含めて知ったかぶりをする人の心理を端的にあざやかに描き出しているところが私の気に入ったのです。この行を発見しただけで、この短編をここまで読み進んだ価値、リウォードがあったのです。

それに加えて、私個人が上記のような状況を経験した同じ年齢の友人の訃報を昨日(6月6日)受け取りました。思うところが沢山あります。


2. 念のためと辞書を引いた単語 dialectic にこの短編の土台が見つかった気がしました。

[原文 2] We walked the same streets every day, obsessively, and we spoke in subdued tones even when we disagreed. It was part of the dialectic, our looks of thoughtful disapproval.
[和訳 2] 私たち二人は毎日この通り、同じ通りを散歩しました。意識してこの通りにしたのでした。 二人の意見が対立した時には声を逆に小さくしました。 そうしたのは相手の発言に潜んでいる、まだ気づき損なっている真実が潜んでいないかを検討する技法なのでした。それは考えに考えを尽くした後の反対表明であることの徴であったのです。

Lines 14 and 15 on page 15/18,
"Midnight in Dostoevsky" by Don DeLillo

原文2において、subdued tones を直後に別の言葉で言い換えているのが it was part of the dialectic であって、もう一度言い換えるのが our looks なのです。 この短編ではこのように直後に名詞句を言い換える手法が多用されています。形容詞や関係代名詞で言葉の意味を限定していくやり方と違う、それだけなのに、私には新鮮でより明確な印象を与えてくれました。


3. この短編の主題を拡散させない、著者の意図を読者にしっかりと認識させようとする文章を二つ見つけました。

A)前回の記事で取り上げた短編冒頭のシーンがその一つです。
再録します。

This was how we spoke of the local people: they were souls, they were transient spirits, a face in the window of a passing car, runny with reflected lights, or a long street with a shovel jutting from a snowbank, no one in sight.

Lines 4, 5 and 6 on page 1/18,
"Midnight in Dostoevsky" by Don DeLillo

道路から掻きよせ積み上げられた雪の土手とそこに用のすんだスコップが突き立てられたまま忘れ去られています。寒い冬の日、人々は家にこもっていてめったに屋外には現れません。私にはこの一本のスコップがこのストーリの中心である老人、寒い曇天の昼下がりの時刻、人気のない寒村の道を歩き回っている老人と同じ存在にみえます。併せてこの寒村は人の社会の全体と同一視できるし、「Todd」と「私」はその社会の構成員である個人に見えるのです。

B)もう一つのシーンは上記した原文 2 に示した文章です。
この短編の「私」と「Todd」は人生を、社会をまともに生きて行こうとしている若者であることが解ります。何度も見つけることができなくとも、何とかしつこくこの老人を探し続けたところには、この二人がこれからの自らの人生を思い描く為の案内役を探しているように見えるのです。この老人とは別に大学で哲学を講義する先生もそんな目で見つめ、評価しているのです。


4. Study Notes の無償公開

この短編全体に対応する私の Study Notes を公開します。
これまで同様、A-4 の用紙に両面印刷すると A-5 サイズの冊子になるよう調整しています。

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