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痛変百夜

夜も更けて丑の刻に近づいてくると決まって右の顳顬が痛みだす。
そこからつらつらと毎夜痛みは垂れて行き四、五分も経てば首筋に薄っすらと浮き出た頸動脈を撫で始める。
もうそうなると取り返しがつかない。

さらに二、三分すると肩にはふっくらと形を持った痛みがしがみついて煙たげな地下の店でポールダンスを自慢げに踊る女のように二の腕までスルスルと降ってゆく。

そこまで行くと痛みは痩せこけて急に色気を纏始める。
ゆっくりと後肘部の脈を探し当て、愛撫した後注射針のように細く尖り、噛みつき出すのだ。
しばらくそうして虐めて、飽きが来ればカ細い何本もの脚を生やした百足のように手首へと這って行く。

雪の降る前の曇り空のように白くそしてねずみ色に霞んだ手首の皮膚を忙しなく姿を変える痛みがつまらなそうにひと舐めしたならそれはもう終わりの合図なのだ。

はっきりとそれは元の姿に帰り、手首に余韻を巻きつけた後、手の甲にもたれて安堵するようにため息を吐く。ピリッとした痛みと別れ際の切なさが募り痛みはここで姿を無くす。透明で少しの重みもないそれは右手の薬指の第一関節に居座る準備を始めるのだ。

ゆっくりと、ゆっくりと皮膚に馴染みながら桃色をした柔らかい肉布団に包まり骨との距離を測り、一度はちょうど骨と皮膚の真ん中に来てみせる。
大まかな測量を終えると1ミリずつ息を殺し皮膚に近づいてゆくのだ、とうとう長い夜も終わる。
「パリッ」薬指の爪の下。第一関節ちょうどに綺麗な裂け目ができ、蕾から花が咲くように、朝くっきり天井を見るように。
彼は仕事を終え、それと同時に私の長い苦痛にもとうとう幕が降りるのだ。

綺麗なほどに真っ直ぐ裂けた私の薬指。
その指を含む十本の指で私は決まって髪の毛を搔きまわす。苦悩するようでもあり歓喜を超えた狂気でもあり。

もう春先だというのに部屋には蕭々と細雪が降る。終わりいつも決まってこうなのだ。

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