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最近の子供は「ごんぎつね」が読めないらしい。

最近の子供は国語力が乏しいという話をよく耳にする。
「AI vs 教科書が読めない子供たち」といったタイトルで本も出版されているほどだ。

この本はまだ読んでいないのだが、果たして国語力が低いとはどういうことなのだろう。

例えばこんな記事を見た。

この記事にはこのような記述がある。

兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。

この記事内で石井氏は状況を正確に推測できない子供たちを見て、「国語力が乏しい」と主張している。

果たしてこれは国語力の問題なのだろうか?

子供たちは「母が死んだ」と「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえている」という二つの状況を踏まえて、両方の文脈に合う結論を導けてはいる。
今回はその結論が一般的な倫理観からかけ離れたものだったというわけだ。

なぜ一般的な倫理観から離れた結論に至ったかというと、以下のような理由が考えられるだろう。

可能性①:この子供たちは葬式をまだ経験しておらず、参列者がたくさん来るとか、参列者に料理を振舞う必要があるとか、前提となる葬式の知識が欠けていたがために、自由な発想でこの結論に至った。
可能性②:この子供たちは怖い話や伏線の張り巡らされたダークファンタジーなどを好んで読んでいたがためにこのような結論に至った。
可能性③:ごんぎつねの時代は今から数百年前と思われるので、亡くなった母を煮るという今ではあり得ない行為もその時代ならあり得たのではないかと推測し、違和感を感じなかった。
可能性④:本当にぶっ飛んだ倫理観を持っていた

このどれか、もしくはこれらの組み合わせが起こっているのではないか。

この仮説が正しいとすると、この子供たちはあくまで状況を正確に捉えたうえで、自分の解釈を言語化できている。
十分国語力はあるけど前提知識が無かったor前提知識がズレていたというのがこの現象の実態であり、国語力とは別の問題ということになるのではないか。

つまり、「ごんぎつね」の事例は「子どもたちに国語力が無い」という主張の論拠にはなり得ない。

ちなみに、ここまで僕は国語力という言葉を読解力とほとんど同じ意味で使ってきた。
国語力=読解力であれば上記の主張はまかり通ると思う。

しかし、石井氏は国語力を「他者の気持ちを想像したり、物事を社会のなかで位置づけて考えたりする力」と定義している。
この定義の場合はどうだろう。

ごんぎつねの事例の後に出て来た「恐喝を理解できない」の事例についても、石井氏は全て「国語力が無い」せいにしているが、僕はどちらも社会常識が欠けているというのが一番の問題であると思う。
なので、石井氏の定義する「国語力が低い」というのは、この問題においては少し言葉が強過ぎるような気がする。

「社会常識が無い」という問題の原因が「国語力が無い」ということだろうか。
これは卵が先か鶏が先かの議論になってしまいそうなので深入りはしないでおくが、ともかく、「社会常識が無い」のと「国語力が無い」のは別問題であり切り離して考えるべきだと思っている。
そして今回の学校で起こっている問題の原因は「社会常識が無い」方だと思う。

そもそも最近の小学生に国語力が無いというのは現場から上がってきている声に過ぎない。サンプル数も不明であるし、過去と比較して本当に増えているのかは疑わしい。
ずっと「あなたの感想ですよね」状態である。


いけない。揚げ足を取ってしまった。

しかし、石井氏の主張にも一理あると思う部分もある。
この記事の冒頭では、
子供たちが「ヤバイ」「エグイ」「死ね」で諸々を表現するため、語彙力が乏しくなり、自分の感情を上手く言語化できない、論理的な思考ができない、双方向の話し合いができない→不登校やいじめなどの増加という弊害が起きている
と語っている。

(ちなみに、これに関しては僕も以前このようなnoteを書いた。

「ヤバイ」「エグイ」「死ね」に関しては上記のnoteはあまり該当しないかもしれないが、おそらくそれ以外にも様々な若者言葉を子供たちは使っていると思われるので、上記noteの主張はある程度まかり通ると思う。)


「ヤバイ」「エグイ」「死ね」みたいな言葉は僕が小学生のころ(十数年前)にも普通に使っていたし、それを問題視するような声は当時もあったような気がする。
この類の言葉の分量が増えたかどうかまでは分からないが、十数年前から存在する問題だったというのは間違いない。
そして、文部科学省の調査によると、現実問題として不登校の数はここ数年増加している。

この調査によると、不登校の主な要因は「生活リズムの乱れ」や「無気力」といった本人に係るものが半数以上ということだ。
これを見ると、国語力の低下により自分の感情すらうまく理解できず、コミュニケーションもうまくいかなくて生きづらさを感じているという石井氏の主張は、原因の一つとしてあながち間違いではないのかもしれない。

実際問題として不登校の増加や社会常識の欠如といった問題が発生している以上、何かしらの対策は必要だろう。
その対策の議論する際には、これらの事象も一つの参考として考慮する必要があるだろう。



というわけで、この記事の「ごんぎつね」や「恐喝」の事例に関しては僕は問題の本質を逃しているような気がしたが、不登校問題についてはそれも原因の一つとしてありえるよねということで、概ね納得である。


以下、僕の意見であるが、
これらの問題に関しては、原因は家庭環境に因るところが大きいのではないか。
社会常識なんてものは親子の日常生活の中で自然と身についていくものであり、きちんとしたコミュニケーションが取れていれば使っている言葉なんてあまり関係ないと思う。
僕は言語学はあまり詳しくないので全て推測だが、世界には日本よりも感動を表す語彙が少ない言葉もたくさんあるだろう。
そんな言語圏でもおそらくはその土地の社会常識は問題なく受け継がれているのだろうし、自分の感情を整理する能力も問題なく発達しているだろう。(話者が現存しているということは問題なかったということだと思う)

となると、語彙力の低下というのも原因としてはあまり的を射ていないようにも思う。
実際は親子間でのコミュニケーションが薄れているというのが問題なのではないか。
この問題に関しては時系列の推移は分からないが、現時点で親子のコミュニケーション不足を感じている人はかなり多いようだ。

ネットが発達して赤の他人と簡単に連絡が取れたり、スマホアプリなど自分一人で完結するゲームも以前より手を出しやすくなっている。
物価は上がるのに給与は上がらないし税金は増えるばかりなので両親共働き世代が増え、さらに核家族化も進んで、家に帰っても話す相手がいない。

そんな昨今の状況が根本的な原因ではないだろうか。


結局月並みな結論に至ったが、月並みになるほど言われているのに何も改善していないのも問題だろう。
ぜひ誰かに何かしらの対策を練っていただきたい。(丸投げ)

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