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女言葉「だわ」の違和感/スクート・マクネイリーを探せ!/寂聴さん逝去

2021年11月15日

先日の朝日新聞の「論の芽(オピニオン&フォーラム)」で、「だわ」や「のよ」の頻出する翻訳小説や映画の吹き替えに対する違和感が論じられていて面白かった。女性の話し方はこうあるべきだという刷り込みや差別意識を反映したものではないかと切りこむ。男性の「だぜ」も同様。さらに性差だけでなく年代や職業にも同様の傾向があるという。教養がありそうな白人は「~と思います」「~ですね」であるのに対し、有色人種や田舎の人は「~と思うんだ」「~だよ」とタメ口で翻訳される。たしかにそうだ。

が、この記事はそうした翻訳を批判しているわけではない。「だわ」「わ」といった女言葉が翻訳の世界に広がった日本の言語背景と、さらには英語圏にも言い回しによる性差の刷り込みがあると識者は解説する。

なるほどな、と思いながら読んだ。が、私自身こうした翻訳にそれほど違和感を持っていなかった。「翻訳や字幕はそうしたもの」と、ある種の「記号」や「形式」として見ていて現実の話し言葉とはまったく別ものと思っているからだろうか。内在する「らしさ」「あるべき」を意識することはなかった。

で、あらためて手元にあるいくつかの翻訳本を見てみた。現代を舞台にした新しい著作ほどこうした性差や年代を感じさせる表現は少ない。

一方、いま読んでいる児童文学『たのしい川辺』(ケネス・グレーアム著、石井桃子訳 1908年の作品)には、モグラやネズミ、ヒキガエルなどによるちょっとクラシカルで大人びた言い回しが多い。モグラやネズミであるもののどんな人柄(?)かを想像させて面白い。そこには「らしさ」「あるべき」が組み込まれているのかもしれない。が、その世界観ごと楽しめばいいんじゃないかと思った。 ともあれ、翻訳家ってすごい。

あ、余談ですが、Twitterで「だわ」「ですもの」といった言い回しを見ると、20代と自称してもそこそこ年配の女性なのでは?と思ってしまう。これも「らしさ」「あるべき」の刷り込みなのかも。反省。


Netflixのドラマ『ナルコス』を見終わってしまった。コロンビアの麻薬組織を舞台にしたシーズン以後、最新作のメキシコ編シーズン3までホントに楽しませていただいた。架空と言いつつ結構な頻度で実際の映像が差し込まれるこのドラマ。歴史の(?)勉強にもなった。

そしてこのドラマではいい役者さんを発見した。ペドロ・パスカルとディエゴ・ルナについては前に書いた通り。今回はスクート・マクネイリーについて、です。

本作ではアメリカ麻薬取締局(DEA)の捜査官を演じたマクネイリー。だいぶ線が細く過去に傷を持つ訳ありの捜査官とあって、それほど魅力的に見えなかったけれど、最終話の見せ場は素晴らしかった。

で、これまでにどんな映画、ドラマに出ているのかチェックしたら、あらまビックリ! 見た映画がけっこう多い。なのにほとんど記憶に残っていない。さっそくどこにいたのかザックリ確認してまいりました。

『アルゴ』では大使館員の1人ジョー・スタッフォード。結構出ずっぱりでクライマックの空港でイラン兵士に(架空の)映画の内容を説明する重要な役どころ。

『それでも夜は明ける』では主人公の黒人ソロモンを最初に騙して奴隷商に売り飛ばす悪いヤツ。

『フライト・ゲーム』ではリーアム・ニーソン演じる主人公に搭乗前に声をかけ、件の飛行機に乗り合わせる乗客の教師。これも重要な役どころ。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』では作中の西部劇に登場する役者。

『プロミスト・ランド』ではマット・デイモンに買収される地元住民の1人。

いやぁ、ホントに今までノーマークで申し訳ございません。というわけで、他の作品も順次視聴予定です。

追記)その後、このような記事をまとめました。


僧侶で作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなった。99歳。
源氏物語の現代語訳など多くの著作のほか、僧侶としての説法が多くの人を惹きつけた。最後のメッセージは「愛するために生まれてきて、愛するために生きている」。寂聴さんらしい。

が、子どもをおいて不倫、結婚、離婚という波乱万丈の人生には批判も多い。このメッセージを聞いたとき(晩年のインタビュー映像)にも「そうはいっても愛なんて言ってられない現実がー」と思ってしまった。

これはもっと大きな意味での愛なんだろう。男女間の愛だけでなく、家族間とか、家族じゃない人とでも、人ではない何かとの間にも愛はある。そういうことにしておこう。ご冥福をお祈りします。

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