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検索履歴「ベルイマン 苦手」/信仰心がうっすい/『厭な物語』を読む 

2021年7月12日

朝起きてスマホを見て、前夜の検索履歴に「ん?」 と思うことが多々ある。今朝は「ベルイマン 苦手」とあった。

昨夜もいつものように呑みながら映画のことをアレコレ考えていた。よく覚えていないが、たぶん自分で「ベルイマン  苦手」と検索したのだろう。ベルイマンの映画をちゃんと見もしないで「苦手」とか「よくわからない」とか、ましてやそれを検索して何を得ようとしたのだろう? 同じ「苦手派」の意見を見て「そうだ、そうだ」と安心しようとしたのだろうか。けしからんな、昨夜の自分。

イングマール・ベルイマン(1918-2007年)はスウェーデンを代表する映画監督。『野いちご』(1957年)『処女の泉』(1960年)など人間の暗部に深く切り込む作風(もちろん見ていません)で知られるまさに巨匠。

ここ最近、思うところあって若い頃に見たもののよくわからなかった映画や、見るのにしり込みしていた映画を見直している。そこにAmazonプライムが「あなたが興味がありそうな映画」としてこのあたりの巨匠作品をブッコんでくるのだ。おそろしや。

『叫びとささやき』(1974年)でも見てみようか。さて、どうしよう。


私が尊敬するコラムニストの中野翠氏。その著書『小津ごのみ』の中で中野氏がベルイマン監督に触れている箇所を再読した。小津作品との対比としてベルイマンの遺作『サラバンド』(2003年)を取り上げ、憎み合っている父息子が長年の恨みを言葉でぶちまけ合うことに、見ていてゲンナリするとある。

やっぱりキリスト教の「告解」とか「悔悛の秘跡」とか「懺悔」とかの観念が精神風土のベースにあるから、こういうドラマが作られるのだろうか。よくわからない。

中野翠『小津ごのみ』より

これは映画を見ていて、私もよく思う。
神とか信仰ということへの親和性が、おそらく一般的な日本人の中でもかなりうっすい私は、主人公が神にすがったり背いた自分を罰したりする姿(『沈黙 -サイレンス-』『ダウト ~あるカトリック学校で~』 など)に、ちょっと引いてしまうことがある。

これは完全に私側の問題なので、それでその映画をどうこう批評できるものでもないし、ならば信仰を持とうなどとなるはずもない。「よくわからない」をしっかり受け止めるしかないのだと思う。

世の人々はどうなんだろう。


今読んでいる短編集『厭な物語』がとても気持ち悪い。まさにタイトルどおり、いやタイトル以上にイヤな気分になる。

アガサ・クリスティーやパトリシア・ハイスミスなどによる、いわゆるイヤミス。「イヤ」にもいろいろあって、物質的な残酷さやグロさだけではない。不条理な事態とそこでの人間の思惑、判断にゾッとさせられる。むしろこっちのほうが怖い。

なかでもフランツ・カフカの『判決  ある物語』には驚かされた。
主人公と老父との会話が軸となる話だが、あっという間にひっくり返されてしまった。短い短い話なので、ホントにあっという間だった。平穏であろうとバランスをとる心を、そんなものは無意味だと言わんばかりに揺さぶっていく。ホント、怖い。

ベルイマンの映画にも同じような危険な匂いを感じてしまうのかもしれない。「イヤなものをわざわざ見なくてもー」とも思うけれど、「人間の暗部から目を背けてはいけない、しっかり見ておけ」という神の啓示なのかもー。って、こういうときだけ都合よく神を登場させてスミマセン。

後日談:『叫びとささやき』と『仮面/ペルソナ』を見た。レビューは書けそうにない......。

というわけでこちらをどうぞ。


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