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曖昧旅記録

忘れ始めたことを書くのが、一番いいのかもしれない。

記憶が新しすぎると、余分な描写をする懸念が生じ、さらには身バレの危険性までも孕む。

かといって記憶が全くなければ、それはそれで何も書くことができない。

ところが適当に朧げなことを書くと、細すぎる部分には自動でモザイクがかかるし、さらに実際は盛り上がりに欠けていた場面を、根も葉もないままに誇張しても、そもそも事実をよく覚えていないために良心が咎めることもない。

ということで、旅行日記(嘘)の本編になるべきだった部分をこれから、書くぞ。


本編

 唐突な立案だった。友人の誘いにより、私は慣れない旅行をすることになった。

 いや、唐突とは言うまい。その話、微かな輪郭に過ぎない程度の計画は、ずっと前から聞かされていた。

 ただ、聞いた当時、その計画はあまりにも微かで、ついぞ風と共に去ったものだと思い込んでいた私にとっては、予想外の知らせに相違なかったのである。


 9月某日朝。私は眠い目をこすりながら、駅構内のベンチに腰を下ろしていた。

 夏季休暇の怠慢覚めやらぬ私に、健康的な生活早起きは毒である。ひとには慣性なるものがあり、突発の変化は好ましくないのだ。

 そのうえ、旅行なるものの経験は、学校行事を除けばほとんどが幼少の記憶の彼方に吹き飛んでいるため、事前の準備がこれで十分なのか、あるいは何もかもが不足しているのか、そのどちらでもない微妙にネタにしにくい中途半端な状況なのか、不安は尽きなかった。

 だが不安の種は私の不慣れのみに起因するものではない。最たる原因といえば、それは間違いなく「この時点当日朝で旅程が一切不明であること」だろう。

 分かっていたのは、二泊三日であること、参加者は自分を含め三人であること、そう安くない費用が掛かること、その程度である。

 どこへ行くのか。何を食べるのか。どこに泊まるのか。そもそも泊まるところがあるのか。何もわからない。

 もちろん、それはひとえに「旅行の計画をまるっきり人任せにしている」という不義理と背中合わせの不都合なのだが、それにしたってもう少し教えてくれていてもいいのではなかろうか。

 だって発案者、おれじゃないし。

 そんなことを考えていると、見覚えのあるシルエットが視界に入った。彼こそまさに、私をこの駅へと召喚した、本旅行の発案者である。ここでは便宜上Tと呼ぶことにする。

「久しぶり」

 挨拶もほどほどに、私はひとつ、許しがたい蛮行について詰め寄らねばならなかった。

「その前に、旅行前日に出費が一万二千円も急増するとは、どういう了見だ」

 メッセージは前日の、しかも夜間に、突如送信されてきた。当初、二泊目の詳細は未定で、どこかの安ホテルか、なんならネットカフェさえも視野に入るくらいの低予算宿泊となるはずだった。それが突然、高級な温泉宿に泊まることになり、一人頭一万円超の追加出資を余儀なくされることになったのだ。

「ぼくじゃない、あいつが発端なんだ」

 発案者で手痛い失恋経験者のTはそう弁明した。

「Nか……」

 便宜上Nと呼称したのが、本旅行のもう一人の参加者である。

 私はTとは毎年顔を合わせる機会があるのだが、Nとはしばらくであった。人見知りの私としては、一定期間交流のなかった人間との再交流は、考えるだけでも多少の胃痛を誘起するものだが、Tの話を信用するなら、この段階でNへのインプレッションがマイナスに傾きかけていた。

「Nの行動にはぼくもびっくりしたよ」

「だろうな」

「ただそれだけじゃない。前日ぼくがスケジュールの確認をしなかったら、二泊目の宿のことどころか、集合さえできなかっただろうから」

「嘘だろ」

 曰く、Nは集合時間を数時間遅れで認識していたとのこと。

「大丈夫なのか、この旅行」

 前途は多難だった。


 荷物の確認を二人で行い、あとはNの到着を待つのみとなる。

「(私の世間話)」

「(Tの世間話)」

「……お、あれNじゃないか」

 久しぶりに見たNは、なんというか、実感がなかった。有り体にいえば、「変わってない」というやつだ。

「前日に一万も予算増やすなよ」

「いやーなんか家族がおすすめの旅館だっていうから」

「おまえそんな声高かったっけ」

 そして、記憶よりも声が高かった。


 無事に全員が集合し、まず向かう先はレンタカー屋である。

 私は自動車免許を持っておらず、Nはペーパードライバーだったので、運転は主にTが担当することになった。

 三人の頭を突き合わせ、レンタカー屋への道を模索する。

「駅から近いんだろ?」

「うん。一番安いところにした」

「場所は……」

 Tが社会科の授業に使う地図帳を広げ、日本地図のページで指を指した。

「ここ」

「ここかぁ」

「確かに近いな」

 





「っていうジョークのためだけに地図帳を持ってきた」

「馬鹿野郎」

 Tの小ボケ(それにしては分厚く大きい本だったが)でひとしきり笑ったのち、スマホでルートを検索し、二、三回ほど店の前を通り過ぎながらも、なんとかレンタカー屋に辿り着くことができた。

 「早く行かないと混みあって出発が遅れることもあるらしいから、できるだけ早くに受付を済ませたい」というTの要望通り、開店直後で他の客が誰もいないレンタカー屋での手続きは一瞬だった。

 そして手続きの最後に伝えられた「ガソリンは満タンにして返してください」という店員の注意事項に、ガソリン代は出るのか、出ないのかをその場で質問できなかった我々は、終日までもやもやを引きずることとなる。

「給油したらレシートとっとけって言ってたよね」

「じゃあガソリン代出るってこと?」

「でもガソリンは自腹でって言ってなかった?」

「じゃあ出ないのかな」

 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とはよく言ったものである。

 ガソリン代は出なかった。


「カーナビの画面でかいな」

「チェンジレバーがわけわかんねぇ」

「おいCDプレイヤーが無いぞ!」

 慣れない最新車種にてんやわんやしつつ、最初の目的地へと向かう。

「あれ、どこで曲がんだ」

「なんか向こうの車こっち向いてね?」

「これ逆走だ!」

 果たして無事に目的地へと着けるのか。

「あぶねぇ」

「信号赤でよかったね」

「あとここに教会の駐車場があってよかった」

「神の加護だな」

 慣れない旅行なのは、もしかすると私以外にとっても同じことだったのかもしれない。


 なにはともあれ、第一の目的地、湿原に到着した。

 自然に囲まれた少人数での観光となるかと思っていたが、ちょうど団体客のツアーとタイミングが被り、比較的騒がしいツアーとなった。

 まずは展望台のような建築物へ足を踏み入れる。内部は売店と資料館、そして展望台と基本的な佇まい。風が強く涼しかった外に比べて、必要以上に暖かい。

 屋内の展示もそこそこに屋上へ。見晴らしは確かにいい。団体客がいなければ、なおのこと。

「あの引率、いま普通に柵から出て屋根に乗ってたよな」

「集合写真を撮るためとはいえ躊躇がなさすぎるだろ」

 肝が据わりすぎているガイドは、何事もなかったかのようにこちら側へ戻り、集団を引き連れて階下へと戻っていった。

「人を率いるにはこういう胆力も必要なのかな」

「死を恐れない異常性にこそ人は魅かれるのかもね」

 ちなみにこの会話は存在しなかった。


 おおよそ要素を味わい尽くした私たちは建築物を出て、いそいそとバスに戻る団体客を尻目に湿原の内部へと歩みを進めた。

「この先が遊歩道、でいいのか」

「たぶん」

 ルートの手掛かりといえば、いつからそこにあるのかわからない木の立て板と、スタンプラリーのインクが乾ききっておらず触れるもの皆染め上げる危険なパンフレットしかない。

「まぁとりあえず行ってみるべ」

「熊とか出ないよな」

「わからん」

 かくして初回イベント、湿原探索が開始した。参加者のうち一人(元山岳部)は半袖、一人は半袖短パンである。

 舐めてんのか。

 私は当然長袖長ズボンである。普段から。

「木の板でできた道があるって書いてたけどさ」

「うん」

「ガタガタ過ぎない?」

「うん」

 需要が無いためにメンテナンスされていないのか、あるいは修繕が自然の猛威に追いついていないのか、道の舗装は舗装というにはあまりに劣悪だった。

 建築物に近いところはまだまともなのだが、しばらく歩いて奥地に進むと、いつ破壊してもおかしくない階段や、板固定用の金具が片方外れたつり橋、段差に対して応急処置的に用意されたであろう見るからに即席の足場など、足腰に自信がなければUターン必至の道程が牙をむいていた。

 私は正直Uターンしたかったが、そこは男三人行動の矜持。必死に食らいつく。

 到着した直後は少し寒いくらいに感じていた外気も、もはや肉体を冷ますには力不足だった。長袖長ズボンの唯一のデメリット、排熱効率の悪さにより、体中に汗がにじむ。

 はじめは雑談をしながら行進していた我々も、気づけば口少なになり、前に進むことに集中する。

 いや、そうでもないかもしれない。脳内で美化されているだけかも。普通にくっちゃべってた気がする。

 いつ終わるのやら。代り映えのしない景色。だが見飽きぬ景色。

 と、突然視界が開けた。これこそが湿原の真の姿なのだ。

「おお」

 道はなおさら劣悪になっていた。


 森林の木々は鬱蒼としていたが、ある種我々を守る傘としても存在していたのだ、と気づく。

 その最たるものは日差し。歩いているうちに日は高まり、風も凪ぎ始めていた。襲う日光を防いでいたのは葉であった。

 更にそれだけでなく、野生の恐怖のようなものも覆い隠してくれていたのだ。視界不良は良いことではないが、いま私たちは平野の中におり、遠くから獰猛な何かしらに発見されでもしたら逃げ切れないことは自明である。

 道の整備もそぞろとなり、迷子という最悪の事態も懸念される。

 もはやただ踏み均されただけになった歩道を行き、再び森へと入る。それだけで気温が数度下がったように感じる。

 木製の道が復活した。しかし行きのそれより高低差が厳しい。小学生なら腕を使ってよじ登る必要さえあるだろう。

「うわっ」

 踏み込むと、木の足場は大きくたわんだ。

「修理しろよ!」

 私の怒りは森に溶けた。


 木造とはいえ再び文明に触れ始めたことで、私の心中に安堵が生まれつつあった。道中で幾人かとすれ違ったこともあり、力でなく理性が統治するコミュニティへ戻ってきたという実感が湧いてきたのだ。

「あ、ここがメインなんじゃない?」

 森林から広場に出た。硬貨を入れると見れる望遠鏡、湿原名が書かれた石碑、落下防止の柵。

「なんかやけに遠回りした気がする」

「まぁ達成感はあるからいいじゃん」

 確かにそうだった。高所から(おそらく)自分たちの歩いてきた道のりを眺める。歩いてきた距離が想定以上だったことがわかった。

「風も気持ちいいな」

 もう少し満喫していたかったが、あとから来た中年の男性が無人の広場を撮影したそうにしていたため、帰路につくことにした。

「鹿だ」

「びっこひいてね?」

「膝から先なくなってる!」

 部位破壊された鹿も見つけた。


 管理された自然を十分堪能した我々は、一泊目のホテルへと向かう。

「電話かかってきた」

 道中、Nに着信があった。

「……はい、はい、そっちでお願いします」

「なんの電話?」

「温泉旅館の予約」

「まだ取ってなかったの!?」

 曰く、旅行前日は旅館の定休日で、インターネットにて空室状況は把握していたものの、予約はまだ取っていなかったというのだ。

「旅行前日に決めて宿泊前日に予約かよ」

「あと広い部屋と狭い部屋があったんだけど、そんなに価格差がなかったから広い部屋にしといた」

「いくら?」

「二千円」

 増額分はNが払ってくれるらしい。ならいいか。


 一泊目のホテルは、なかなか品のよいホテルだった。エントランスのコーヒー以外にも無料のサービスがいくつかあり、半ばグレーゾーンのような気もする手を使いながら全てを享受した。

「じゃあ飯食いに行くか」

 空にはきれいな夕焼け。一日の終わりを告げるにはふさわしい。だが、我々の一日はまだ終わっていない。食事がまだ終わっていない。


 街に出た我々は、景色を見つつ、ちょうどよい飯処を探す。

 せっかくなのでその土地特有のなにがしかを食べたい。かといって高すぎるのも厳しい。

「なんかすげぇ図書館あるぞ。明日の朝時間あったら行きたいな」

 夜も更け、空腹も耐えきれなくなってきた頃。私たちは行き先に困っていた。慣れない街であるのもそうだし、観光地ゆえの物価の高さもあり、なかなか需要にマッチする店舗がなかったのだ。

「とにかく腹が減った」

「ここにするか」

 お通し料が千円の居酒屋だった。


「お通し料っていうか、席料込みの価格ならまあ妥当じゃない?」

「でもだったら最初から書いててほしいよ」

 予期しない出費にぶつくさ文句を言いながらホテルへ帰る一行。

「そういえばパソコン持ってきたから映画とか見れるよ」

「じゃあ犬神家の一族見るか」

「……マジ?」


書き始めた当初は一記事にまとめるつもりだったが、今月中に書ききれそうにないので前後編に分けることにした。これは前編とする。

ここはどこだ