チノカテ/地の糧

2022年10月22日(日記ではありません)

・ヨルシカの「チノカテ」と、チノカテのモチーフとなったアンドレ・ジッドの文章の『地の糧』に両方触れて思ったことを書きます。

・まず触れたのはチノカテの方なのですが、この曲に関しては雰囲気で好きになる以上の、歌詞で描かれるストーリーを味わうまでに到達できずにもやもやしていました。この後歌詞についていろいろ書くのですが、元の歌詞は載せないのでこちらでご参照ください

・初めに、これをどちらに定めるかで歌詞の雰囲気が全く異なると思うのですが、これってどちら視点の歌詞なんでしょうか。おそらく登場人物は、夢を追いかけている(絵を描いている?)男性と、それを見守っている女性の2人だと思います。この前提すら違っていたら今後書くことすべてに意味がなくなるのですが、恐らくそうであると仮定して先に進みます。どうしてここまで自信がないのかというと、1番の歌詞に「本当はいらなかったものもソファも本も捨てよう 町へ出よう」 2番の歌詞に「本当に欲しかったものも鞄もペンも捨てよう 町へ出よう」 とあるのですが、ここでいう町へ出ようという言葉の対象が掴めないからです。町へ出ようという言葉の対象は男性のような気がするのですが、MVで本を読んでいる描写があるのは女性です。これはチノカテと同じ世界観だと思われる左右盲の女性も同じだったので、女性と本は比較的強い結びつきがあると言えると思います。男性は絵を描いているので、男性に強い結びつきのある持ち物を表すときにまず初めに本とソファは出てこないような気がします。ソファに関しても、絵を描くときにソファにいることはまずないと思うので、女性がソファに座っていて男性が絵を描いている方が想像できます。でも、鞄とペンは逆に、絵を描いている男性の持ち物のような気がします。何を言いたいのかぼやけてきたのですが、「町へ出る」という言葉を聞くと、夢を諦めて社会に出るとか、夢を追いかけるという自分の中に没頭することから抜け出して自分の外側の世界を見るとか、そういうことをイメージするのですが、それをするのはどっちなのかが分からないということです。

・ここまで言語化したことが無かったので、今整理していて思ったのですが、もしかしたら町へ出ようと思っているのは両方なのでしょうか。夢を追いかけているのはおそらく男性だとして、女性も男性と過ごしていた家を出て町へ出る、もっと直截に言えば別れるということなのかもしれないなと思いました。よくよく考えたら、左右盲でもすでに2人は別れていて男性が思い出について歌っている感じですよね。個人的には捨てるものとして「ソファ」が出てくることの意味を掴み切れていなかったのですが、この解釈をするのならばわかるような気がします。ソファを捨てるということは、精神的に貧しくなるというか生活の中の余裕がなくなるイメージがあったので、男性がソファを捨てて自分の外側の世界を直視するとか社会に飛び出すというのはなんか過度に自分を追い込みすぎているような気がしたのですが、女性にとってソファを捨てるということは2人の家でくつろげる場所であったソファを(つまりその家にとどまることを)捨てて、女性が2人の関係から外に飛び出していくことを意味するのではないかと思います。

・ちょっと待ってくださいね。今私が考えていることと、チノカテの解釈が全くできなくて地の糧を読もうと思ったときの解釈が混ざって訳が分からないことになっているので少し整理します。まず地の糧を読む前の私は、この歌は女性視点の歌だと思っていました。夢を追いかける男性の将来を想って、自分の内側に燻る男性に外側の世界を見てほしいと望んでいるというイメージを持っていました。でも、それだと理解できない歌詞があったり、そもそも夢を諦めてもいいと言えたらなとか、町へ出てほしいとか、庇護的な部分が見えすぎて違和感があったりしていました。でも、今改めてちゃんと考えると、この歌は両方の視点で歌われたもので、そして両方とも町へ出ようとしているのではないかと思いつつあります。という感じで、以降でも今の私が考えていこうと思います。

・それでいうなら、1番は女性視点、2番は男性視点でしょうか。これなら枯れてしまった白い花への認識の違いも腑に落ちます。1番では「本当に大事だったのに そろそろ変えなければ」で、2番では「本当に大事だったなら そもそも買わなければ」となっています。私は白い花が何を差しているのか掴み切れていなかったのですが、これってもしかしてこの関係性のみずみずしさを表しているのではないかと思いました。もしそうだとしたら、女性は心機一転して今の男性ではなく別の人か別のものに気持ちを向かわせようとしていて、男性は夢を追いかけすぎて大切にしたかった人を大切にしきれなくて女性の幸せを奪ってしまったと思っていると解釈することができるような気がします。さらに枯れた描写についても1番は「優しすぎて枯れたみたいだ」で2番では「いつの間にか枯れたみたいだ」となっているのですが、これも同じ捉え方で解釈をすると、女性は相手に尽くしすぎて相手への気持ちが枯れてこの関係性が終わりかけていること、男性は夢(自分の内側)に没頭しすぎたせいで気がついたらこの関係性が終わりかけていることを表していると言えると思います。

・1番が女性、2番が男性視点だという前提で、1番と2番についてもっと考えてみます。1番の歌詞では、自分を取り巻く生活感や部屋に差し込む夕日の綺麗さに心が向かっている様子を感じ取ることができます。逆に言うと、1番の中に「貴方」は出てきません。これは、もはや男性に全く心が向かなくなったことを表していると言ってもいいのかもしれませんが、同時に一つ気になることがあります。それは「あ、夕陽。本当に綺麗だね」という歌詞です。「だね」という語尾は、誰かに呼びかけている感じをイメージさせます。大胆に解釈するのですが、女性は男性と世界の綺麗さを共有したかったのではないかと思います。男性はずっと心が内側に向いていたけれど本当は女性は外の世界の美しさを男性と共有したかった、でもできなかったから今があるのではないかと思いました。これは、2番のサビの後の「花瓶の白い花 枯れたことも気付かなかった 本当に大事だったのは 花を変える人なのに」という歌詞からもうかがうことができます。この歌詞が男性目線で、ここでいう「花瓶の白い花」は言葉のとおり家に飾られている白い花だとすると、男性は女性が飾っていた白い花が枯れたことに気がつかないぐらいに周りの世界の美しさが見えていなかった状態にあると想像することができます。そして、白い花の水を変えていた女性は自分にとって大切「だった」こともうかがうことができます。「だった」のは、もう女性は「行ってしまう」ので大切にすることができないからだと思われます。

・待ってください。いろいろと話が飛ぶのですが、2番のサビがこの解釈だとどうしてもずれます。なぜなら、男性目線で「ずっと叶えたかった夢が貴方を縛っていないだろうか?それを諦めていいと言える勇気が少しでもあったら」とは言わないだろうと思うからです。やべえ……。サビの前半は「ずっと叶えたかった夢が……」で後半が「本当に欲しかったものも鞄もペンも捨てよう」になるのですが、今までの解釈で言うと前半と後半の視点が違うことになります。そんなことある???それとも、女性が男性に対して「もう夢を諦めて鞄もペンも捨ててください」って言っているってこと???そんなわけなくない????

追記:これはおそらく解決しました。2番のサビ「ずっと叶えたかった夢が貴方を縛っていないだろうか?それを諦めていいと言える勇気が少しでもあったら」は、私が勝手に女性が男性に対して「もう諦めていいよ」と言うイメージを持っていたのですが、実際はおそらく、「ずっと僕が叶えたかった夢が貴方(女性)を縛っていないだろうか?僕が自分の夢を諦めてもいいと女性に対して言える勇気が少しでもあったら」なのではないかと思いました。だとしたら、1番と2番のサビは、それぞれの前半が相手に向けた言葉で、後半が自分の決意だと捉えられます。後に書くのですが、最後のサビでも同じ構成になっているので、おそらくこれでまとまります。


・あともう1つずれるとしたら、一番最後の部分の歌詞もちょっとおかしいことになります。「行く」のは女性で、「全部を読み終わって目を開ける」のは男性だとしたら、「『どうか』目を開けて」の「どうか」は違和感があることになります。「どうか」って相手に対して祈る意味合いがあると思うからです。自分に対して「どうか」って使うでしょうか。ちなみに、ここまでの解釈で言うと、本を捨てるのは女性なのですが、最後の部分の「全部を読み終わった後はどうか目を開けて この本を捨てよう、町へ出よう」は男性だと思います。これは、原作『地の糧』の「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉をなぞっていると思われるからです。そして「全部を読み終わる」とは男性が自分の夢に没頭していた状態から目を醒ますということだと思います。でも、だからこそ、男性が夢から目を醒まして「『この』本を捨てよう、町へ出よう」と「自分」の物語を終わらせようと決意している一つ前の歌詞で「どうか」が出てくる意味が掴み切れないところがあります。ただの強調表現だと捉えていいのでしょうか。

・いろいろぼろが出始めたのですが、この解釈のままとりあえず先につき進んでみたいと思います。2番の「本当は僕らの心は頭にあった 何を間違えたのか、今じゃ文字の中」という歌詞について考えてみます。「心が頭にあった」という表現の意味を私はつかみ切れていないのですが、心が文字の中にある状態はいくつか想像できるような気がします。まず、女性が男性に向き合うことに虚しさを感じて本の中の文字に意識が向かうようになったことが想像されます。あとは、「綺麗だね」という言葉の中身にある心が動く感じを共有することができずに、女性が「夕陽が綺麗だね」と言ったら男性がとりあえず「そうだね」という言葉を返すという感じで、言葉の枠組みでしかコミュニケーションが取れなかったことも想像されます。

・そして、あとひとつ私が上手く読み解けないのは、「貴方の欲しがった 自分を捨ててしまった 本当に大事だったのに 今更思い出す」という歌詞です。これは女性目線なのか男性目線なのかによってずいぶん変わってくると思います。さらに言うなら、「貴方の欲しがった自分」をどのように解釈するのかでも全く異なってくるように思います。これは本当に仮説なのですが、まず、この部分は女性目線だと思いました。なぜなら、その後の「花瓶の白い花……」の部分は男性目線だと思われるからです。対比になっているのではないかと思いました。そして、「貴方の欲しがった自分」とは、自分の外の世界を見て素直に心を動かすことなのではないかと思いました。夕陽や花を見て綺麗だと感じる心は、男性にとって眩しいものだったのではないでしょうか。しかし、夕陽や花を見て綺麗だと感じた心は、おそらく男性といたことにより少しずつ乾いていったのではないかと思います。なぜなら、男性が女性の心の動きを一緒に追ってくれない状態だと自分の心の動きに意味を感じられなくなると思うからです。ただ、これは本当に仮説の域を出ないので、本当は全然違うかもしれないなと思っています。

・最後のサビは前半が女性で、後半が男性だと思います。それぞれの視点の前半では相手に対しての思いで、後半は自分の決意を表していると思います。例えばサビの前半の「これから先のもっと先を描いた地図はないんだろうか? 迷いはしないだろうか それでいいから そのままでいいから 本当はいらなかったものもソファも本も捨てよう それでいいから」は女性目線だとして、「これから先の……そのままでいいから」は男性に対しての言葉で、後半は自分の決意だということです。もしそうだとしたら、「それでいいから そのままでいいから」とお互いがお互いに思っていることになります。「心を共有できなくなって行ってしまう」女性と「夢に囚われて何も見えなくなってしまった」男性は、お互いに相手を想っていて、想っているからこそ自分が自分のままで相手の目の前に居られないことを感じたのではないかと思いました。離れることでお互いが自分のままでいることを選んだし、離れることで揺れるそれぞれをお互いにそのままでいいと肯定したい気持ちがあったのではないかと思いました。

・これで「チノカテ」の歌詞に対しての考察は以上になるのですが、書き始めにチノカテの歌詞について考えていたことと実際に出来上がったものではかなり異なったので自分の感情がついてきていません。半分こじつけのような気もしているので、よくわかりません。

・そして、オマージュ元のアンドレ・ジッド『地の糧』についても書きます。この本を読もうと思ったのは、チノカテの中の「町に出る」とは具体的にどのようなことなのかが分からなかったからです。私は当初、この曲は全体を通して女性目線だと思っていたので、夢を追いかける男性に対して「町に出よう」と言っていることの意味を探っていました。夢を諦めて社会に出ようという意味なのか、それとも自分の内側だけじゃなくて外界に目を向けてほしいということなのか、その意味を掴みあぐねていました。そのため、オマージュ元の『地の糧』における町にでることの意味を知りたいと思いました。

・『地の糧』はひとことで言うと、空の青さとか若草の香りとか全てが最高だから旅に出ようぜ!Yeah!ってひたすらに書いてある本です。すみませんこれは軽く言い過ぎました。でも、この本のほとんどが、旅をしていて出会ったどこかの街並みとか、自然とかを美しく劇的に描写することに割かれています。

・ジッドが外界を美しく劇的に描写したことの意味は、初めの方に書いてあります。『地の糧』は、アンドレ・ジッドが高校卒業試験の勉強の時に出会ったモーリス・キヨに対して書いた本です。(キヨって某実況者が思い出されますね。どうでもいいですね。) ジッドと出会った当初のキヨは、ジッドと同じく本を書いていたのですが、『地の糧』出版時はすでに文学から退き、家業の酪農農園を経営していました。そんな彼に対して、ジッドは『地の糧』を書いたのです。

・なんとなく大切そうな言葉を抜き出します。「どうか本書が、それ自体よりも君自身に——さらに君自身よりも他のすべての事物に——興味を持つことをきみに教えるように。」「(欲求の対象よりも) 欲求そのものの方が私を豊かにしてくれたのだ。」「ナタナエル(人名)、いつになったら私たちはすべての書物を焼き尽くせるのだろう!!! 浜辺の砂は心地よいと読むだけでは私は満足できない。裸足でそれを感じたい……まず初めに感覚によって捉えられたのではないような知識は、私には一切無用だ。」「この世で艶に美しいものを見ると、自分の愛情すべてを挙げてそれに触れたいと即座に願わずにはいられない。」

・この本は全体的に、自由に放浪することは最高!みたいな書かれ方をしています。外界へ自分の欲求のままに飛び出して生を感じることが、この本の全体で描かれていることであり、それが「書を捨てよ、町へ出よう」の意味だと思われます。ちなみに、この本には他者とのつながりが一切出てきません。大体ひとりです。それは、ジッド自身が結婚したばかりの時に『地の糧』を書いていたため、手放した自由を希求するようにこの本を書いたからだそうです。さらに、彼は後に、この本を書いた自分とはいち早く分かれたとも書いています。そして彼はそれについて、自分の特徴は変わりやすさどころか、自分の心と思考に対して忠実なところにあるとしています。

・いろいろ書いたのですが、これを読んだ直後、私は決定的に何かを掴めたような感覚はありませんでした。しかし、今この文章を書くことによりチノカテの歌詞を整理できたことによって、ジッドが言いたかった町に出ることの意味をより深く感じられたような気がします。チノカテにおいて、外界に対しての心が上手く動かなくなった二人が、今後町に出ることによって外界を直に感じていくんだろうなと思いました。

・以上です。いろいろと自分の思う方向に寄せすぎてしまったのではないかと恐れているのですが、うまく書けていたらいいなと思います。あと、読解の要素が強すぎて感触みたいなものを忘れてしまうのではないかと思ったのですが、きちんと考える前はなんとなくエモいぐらいのことしか感じられていなかったのに対し、今はもうちょっと曲との距離が縮まったような気がするので、書けてよかったなと思いました。

・それでは!

・追記:歌詞の前後を気にせずに書いてしまったので、いろいろとぐちゃぐちゃになってしまいました。そのため、私が捉えた女性目線、男性目線の部分の歌詞を分かりやすいようにまとめて書いて置いておきます。

〇女性 ◆男性
〇夕陽を呑み込んだ
コップがルビーみたいだ
飲み掛けの土曜の生活感を
テーブルに置いて

花瓶の白い花
優しすぎて枯れたみたいだ
本当に大事だったのに
そろそろ変えなければ

あ、夕陽。本当に綺麗だね

これから先のもっと先を描いた地図はないんだろうか?
迷いはしないだろうか
それでいいから そのままでいいから
本当はいらなかったものもソファも本も捨てよう
町へ出よう

(※サビ前半は女性から男性に向けた言葉、「本当は~」は女性の決意)

◆本当は僕らの心は頭にあった
何を間違えたのか、今じゃ文字の中
花瓶の白い花
いつの間にか枯れたみたいだ
本当に大事だったなら
そもそも買わなければ

あ、散った。それでも綺麗だね

ずっと叶えたかった夢が貴方を縛っていないだろうか?
それを諦めていいと言える勇気が少しでもあったら
本当に欲しかったものも鞄もペンも捨てよう
町へ出よう

(※サビ前半は男性から女性に向けた言葉。「本当に~」は男性の決意)

〇貴方の欲しがった
自分を捨ててしまった
本当に大事だったのに
今更思い出す

◆花瓶の白い花
枯れたことも気付かなかった
本当に大事だったのは
花を変える人なのに

◆あ、待って。本当に行くんだね

〇これから先のもっと先を描いた地図はないんだろうか?
迷いはしないだろうか
それでいいから そのままでいいから
本当はいらなかったものもソファも本も捨てよう
それでいいから

(※前半は女性から男性に向けた言葉、「本当は~」は女性の決意)

◆貴方の夜をずっと照らす大きな光はあるんだろうか?
それでも行くんだろうか
それでいいから そのままでいいから
全部を読み終わったあとはどうか目を開けて
この本を捨てよう、町へ出よう

(※前半は男性から女性に向けた言葉、「全部を~」は男性の決意)

・追記
1番と2番の花瓶の白い花に対してのそれぞれの反応、「あ、夕陽。本当に綺麗だね」と「あ、散った。それでも綺麗だね」について思ったことを書き忘れたので追記します。先ほど書いた時には、1番のこの部分から、綺麗なものを共有したい女性の様子を感じ取りましたが、実際には「花瓶の白い花」は関係性のみずみずしさ、その後の感想は枯れてしまった花瓶の白い花(終わりゆく関係性)に対するそれぞれの想いが描かれているのではないかと思いました。何となく察せられるとおり、女性は次の出会いに心が移っていて、男性は未練タラタラだということかも……と。以上です。

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