『思い出の場所がまたひとつ・・・』
この話は2021年3月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第161作目です。
通勤電車の中でインターネットのニュースをスマートフォンでチェックすることが習慣になって久しい。混んだ車内では身を縮めて吊革に掴まるのが精一杯。本当は本を読みたいのだが、座れなければ混んだ車内で本を広げるのは厳しい。
一日ニュースのサイトにアクセスした瞬間に、まだ少し残っていた眠気が吹き飛ぶような衝撃的な見出しが突然スマホの画面に表れた。
=「ハードロックカフェ大阪が閉店へ 約30年の歴史に幕 コロナ禍背景に事業再編か」=
このコロナ禍での特に飲食店の経営の厳しさは毎日のように報道されている。世界中に展開している大手にまでその厳しさが及んでいるということだ。ニュースを読みながらよくしてもらっている行きつけのお店のオーナーや大将たちの顔がいくつも浮かんできた。これから仕事なのに朝から嫌なニュースを見てしまったと思った。
嫌なニュースを見てしまったと思ったのはもう一つ理由がある。大阪のハードロックカフェは自分にとって思い出がある場所のひとつだったからだ。
航空会社に在籍していた頃の大阪出張というと、夕方まで勤務地の成田で仕事をして成田発伊丹行きに飛び乗って大阪へ出かけて行った。
1996年から2001年にかけてはこのパターンがほとんどだった。
夜の帳が下りた伊丹に着くと難波行きのバスに乗った。大阪での仕事先は関西国際空港。なんば(平仮名表記のほうが浸透しているようなので以後平仮名にします)で一泊して翌朝なんば駅から南海電鉄の快速電車ラピートで関空を目指すことが多かった。
なんばでの宿泊先は南海サウスタワーホテル大阪(現スイスホテル南海大阪)だった。このホテルは南海電鉄のなんば駅に直結しているので移動が楽だった。
デパートの高島屋にも直結していた。しかし、高島屋が閉店している時間に到着し、翌朝開店前に関空に向けてホテルを発っていたので営業しているところは一度も見たことがなかった。
南海サウスタワーホテル大阪のステッカー。まだスーツケースに貼ってあります。HOTELの文字が半分消えているところに年月を感じます。このホテルに関しては改めて書くつもりでいます。
ホテルの目と鼻の先にはかつての南海ホークスの本拠地の大阪球場があった。ホークスが福岡に移転した後もしばらく取り壊されることなく利用されていた。フィールド内は住宅展示場か何かだったと思う。
かつては球場の外周に沿っていくつもお店が入っていたであろうスペースを上手く利用してハードロックカフェがあった。大阪の大繁華街のひとつミナミに位置し、アメリカのレストランがアメリカからやってきたベースボールが行なわれていたところの跡地を利用するというセンスの良さに感心した。
大阪に着いて翌朝ラピートで関空へ向かうまでが束の間の自由時間であり、トラベラーとして大阪を感じることが許された唯一の時間だった。旅装を解いた後で何度か一杯飲みにハードロックカフェへ出かけて行った。
ミナミも散策した。同じ日本の繁華街だが、生まれ育った東京の繁華街とはどこか違うなと思いながら歩き回った。
ハードロックカフェが大阪球場跡にあった頃に買ったピンとキャップ。野球場跡で営業していただけに “STADIUM OF ROCK”。このフレーズを一目見て感心して買いました。保存が悪かったため汚れが見苦しくて失敬・・・ (苦笑)。
2001年の9.11のテロの一月後に航空会社を失業した。失業後間もなく2002年の日韓共催のサッカーのW杯の仕事をいただいた。W杯のときも自分の担当の札幌と大分の試合が終わった後で大阪会場のサポートで大阪に数日滞在したが自由時間はほとんどなかった。
6月にW杯が終った後で8月に大阪で行われたNFLの仕事をいただいた。ワシントン・レッドスキンズ(現ワシントン・フットボール・チーム)のイクイップメントチームに通訳として付いた。
イクイップメントチーム総勢5名。彼らもスタッフも選手たちと一緒に一試合だけのプレシーズンマッチの後で大阪ドーム(現京セラドーム)から関空へ直行してチャーター機で帰国することになっていた。
試合前日の夜にイクイップメントチームのみんなで夕食をとることになった。私が付いていたスタッフたちのリクエストは鮨や天ぷらなどではなく、ハードロックカフェでの「アメリカごはん」だった。
大阪滞在中イクイップメントチームの移動用に運転手さんと車の用意があった。運転手さんに向かってもらったハードロックカフェは勝手知ったるなんばではなく本町に移転していた。
食事の後で経済的に余裕のあるスタッフはお土産にグッズを物色していた。そのほかのスタッフは店の前の階段に腰掛けて買いものが終わるのを待っていた。私は両方のスタッフに目を配る必要があり店を出たり入ったり。
待っている最中にお店のスタッフが私のところに来た。ワシントン・レッドスキンズのスタッフかと尋ねられた。万が一スタッフが街中などではぐれてもすぐに私のことを見つけられるようにパスをクビから下げていたからすぐに分かったのだろう。何かトラブルかと身構えた。
ハードロックカフェはそのときのNFL OSAKAに協賛していたので、関係者はグッズが30%オフになる旨を伝えにきてくれたのだ。食事が終わったこのタイミングで仕事かと思ったが杞憂に終わった。
買いものが出来ずに暇を持て余していたスタッフたちに30%オフになる旨を伝えると、大急ぎで店内に入って行った。私も割引の恩恵に預かれた。W杯期間中に買えなかった記念のピンを割引で買うことができた。役得とはこのことかと思った。
何人かのスタッフは私が交渉して割引になったと思ったらしく何度もお礼をいわれた。これもある意味役得だったのだろうか。
30%オフにつながったパス(笑)。これも大阪の思い出の品です。
「役得」で購入したピン。OSAKAの地名が入った紙袋とセットでお宝かもしれません(笑)。
ハードロックカフェが大阪球場跡にあった頃の自分は航空会社の社員。出張先ではどこでもお客さん扱いだった。NFLのスタッフと一緒のハードロックカフェでの自分はフリーの通訳でNFLというお客さんの案内。ハードロックカフェの場所も変わっていたが、こちらの立場も変わっていた。
大阪のハードロックカフェは自分の立場が180度変わったことを再認識させてくれた場所だった。この仕事が終わったら無職だった。帰京したらお金の使い方など考えなくてはと思った。
私にとってはそういう場所だった。定職のある今の立場で再訪したらまた異なった感情が湧いてきたかもしれない。閉店してしまった今ではそれがどんな感情なのかを知る術がなくなってしまった。
W杯のときの大阪の滞在先は心斎橋だった。前述の通り担当の札幌と大分での全試合を終えていたので大阪では気が楽だった。同じ札幌・大分チームのKさんと当日急にできた空き時間に夕食に出た。
大阪に住んでいたことがあったKさんにたこ焼き屋に連れて行ってもらった。担当会場の試合が全て終わった開放感とお酒も手伝ってお互いの身の上話をした。Kさんの女性ならでは指摘が鋭かったのを覚えている。
そのたこ焼き屋のショップカードはまだ手元にある。そのお店がまだあるかどうかはインターネットで調べればすぐにわかる。しかし、調べたくない。調べてそのお店がなくなっていたら辛いからだ。
旅先の思い出のお店がもうないと知ったときのガッカリした気持ちといったらこれほど辛いものはない。このコロナ禍で世界中の思い出のお店がひとつまたひとつとこうしているうちに姿を消しているかもしれない。
平時に戻り普通に旅ができるようになったとする。再訪した旅先で思い出のお店がなくなっていることを知る。コロナの後遺症はひとそれぞれで結構厄介だという。トラベラーにとってのコロナの後遺症のひとつは旅先で思い出のお店がなくなったことを知ったときのガッカリだと思う。思い出の深さによっては結構後を引いてかなり厄介だと思う。
これからどれだけガッカリさせられるのだろう。そのガッカリを和らげてくれるワクチンはないものか・・・。
追記:
1. 大阪のハードロックカフェのキャップとトラベラーズノート。Instagram的にはこんな感じでしょうか。しかし、キャップの保存状態が悪い(苦笑)。
2. 本文に出てきた2002年のW杯は「On The Road 1」、NFL OSAKAの話は「On The Road 2」というタイトルで以前書きました。未読の方は是非合わせてご笑覧ください。
3. 文中に出てきたKさんはハングルとフランス語が堪能です。 「Air Force One」を書いた際にはハングルの和訳をお手伝いいただきました。
4. 大変お世話になっている旅行作家の下川裕治さんがYouTubeチャンネルを開設なさっています。日々更新されています。トラベラー各位にはとても興味深い内容ですので是非ご覧ください。
「おとなの青春旅行」講談社現代新書 「パブをはしごして、青春のビールをーイギリス・ロンドン」を寄稿
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