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『3,000円のベーグル』

 この話は2013年6月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第68作目です。

 2012年の9月の終わりにイギリスを約20年振りに訪れたときの話を先日書いた。その旅で必ず食べたいと思っていたものがあった。その旅に関しては、「再会・4」(https://note.com/nostorynolife/n/n67d4a769a760) 詳しいのでここでは割愛する。

 それはたまたまテレビで観たロンドンを特集した旅番組の中で紹介されていた。ロンドンオリンピックの前だったので、ロンドンを取り上げた旅番組が多く、結構マメにチェックしたが、その食べたいと思ったものを取り上げていたのは、その番組だけだった。

 トラベラーズノートのプロデューサー、飯島淳彦さんがヨーロッパへ出張されたのは、私がそのテレビ番組を観てから間もなくだった。飯島さんが出張の様子をウェブ上の御自身の日記で詳しく紹介していた中に、私が旅番組で観て食べたいと思ったものと同じものが紹介されていた。その日記を拝読しながら、「お〜、飯島さんやるね〜。」と思わず独り言ち、微笑んでしまった。

 それから間もなくして、私にとって約20年振りとなるイギリスへの旅が決定した。そのイギリスへの旅の目的は、「再会・4」に書いた通り、もちろん別にしっかりとあったが、旅が決まった途端、私の中でその“必ず食べたい”と思っていたものが“何が何でも食べたい”ものに変わっていた。

 ロンドンの郊外にあるかつてのホームステイ先を訪ねるのは旅の中の半日だけだし、久し振りに観光も街歩きもしたかったので、宿はロンドンに取った。夕方ヒースロー空港に到着して、ホテルにチェックインしたのは、ほぼ夕食時だった。時差ぼけもジワジワと襲ってきそうな気配がしたので、土地勘を呼び起こすのも兼ねて、同行した母とともにロンドン市内を歩いたり、地下鉄に乗ったりした。久々にやってきたイギリスでの最初の食事は、私が“何が何でも食べたい”と熱望していたものにしようということになった。

 そのお店の最寄りの駅であるとされているリバプール・ストリート駅に地下鉄で着いた。ガイドブックを片手に歩いては目の前のお店に飛び込んで何度も道を尋ねたが、なかなか着かない。「あ〜、そこならここから10分も歩けば着きますよ」と何度言われただろうか。しかし、本当に着かない。このまま歩き続けたらスコットランドに着いてしまうのでは?と思うくらい歩いたが着かない。

 お店があるブリックレーンといわれる地区には入っているようだが、それらしきお店は見当たらない。ここは以前大変治安が悪いところだったとのことだが、歩いているとそれがはっきりと伝わって来るくらい、陽が落ちると暗くて危険な感じがした。以前なら意地でも探しただろうが、結局その時は諦めて、翌日の昼に再度探すことにした。約20年振りのイギリスは、到着したその日から早速“やってくれるじゃねーか”という気にさせてくれた。

 翌日ホテルからタクシーでランチタイムを少々過ぎた頃にそのお店に向かった。時間の節約と効率を考慮してのタクシー利用だったが、タクシーを使うことに旅人として何とも言えないものを感じた。

 スマートフォンのナビゲーションアプリを使ってもよかったが、画面を眺めるばかりで人との会話がなくなるし、道に迷わないとも限らない。タクシーのほうがまだ運転手との会話があるので、外国を旅していることを実感出来る・・・等と、少々複雑な気持ちを抱えながらも、店の住所を運転手に渡したので、道に迷うことと時間をロスする心配を忘れて、窓から見える歩いていたとしたらきっと見られなかった景色を母と話しながら楽しんだ。スマートフォンの画面とにらめっこをしていたら景色は楽しめなかっただろう。

 タクシーの後部座席で私がこのように葛藤しながらも景色を楽しんでいる間も運転手は、アジア人が二人、それもタクシーを使ってまで食べに行く程美味しい店なのだろうかと思っていたに違いない。

 ブリックレーンがあるイーストエンドと思われるエリアに車が入っても、目指すお店はすぐに目の前に現れなかった。車は結構複雑な道を入って行った。交通事情の関係でお店の少し手前でタクシーを降りた。少し歩くと昨日辿り着けなかったお店があった。やっと着いたかと心から思った。

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やっと辿り着いたお店の正面です。この看板を目の前にしたときはちょっと感動しました(笑)。

 店に入ると結構混んでいたが、テイクアウト(イギリスだからこの場合はテイクアウェイか)が基本なので客対応の回転が早く、長く待つこともなく注文の順番が回ってきた。

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これが“何が何でも食べたかった”ソルトビーフのベーグルサンド。一つ日本円で約400円でした。何も付けないで食べるのが一番美味しいと思いますが、お好みでマスタードを付けても味が少々変わって美味しいです。店内で食べる場合は立食いだったので、同行した母は少々面食らっていました(笑)。

 念願のベーグルサンドをようやく手にして一口齧るととても美味しかった。写真で見るよりも少々小振りに思えたが、挟まれているビーフの量が圧巻だった。ベーグルは店の奥で、ビーフは店頭で焼かれていた。

 タクシー代も含めて3,000円程(母の分のベーグルサンドと別にテイクアウェイした分も含む)かかったが、食べたかったものが食べられた嬉しさと、旅の目的を一つ達成できたという満足感が、かかった金額を上回った気がした。

 食後に近くでコーヒーを飲み、前日のリベンジではないが、そこから地図を片手にリバプール・ストリート駅まで歩いた。陽があるうちのブリックレーン地区は夜とは違う表情をしていたが、陽が落ちたら怖いだろうなと思わせる雰囲気はしっかりあった。町中の壁にスプレーでの落書きが結構あり、一昔前のニューヨークのようだった。かつて治安が悪いところだったというのは、昼間のその様子からも伺えた。

 途中一回だけ道を尋ねたが、問題なく駅に辿り着けた。10分も歩けばとのことだったが、たっぷり20分以上は歩いただろう。例え前日に訪れたのが昼間で、辺りが明るくても、これは辿り着くのは難しかったなと思った。タクシーを使ったのは結果として大英断だったと思った。

 駅に辿り着いた時には、行きにタクシーを使ってしまったという後悔に似た気持ちは消えていて、その日の予定に入れていた観光スポットへ地下鉄で気持ちよく向かった。

 かつては旅先で道に迷うのも旅の中の一興だと思っていた。しかし、適当なところで妥協しないと(この場合タクシーを使うこと)、疲労とストレスに旅そのものを壊されてしまう。このように以前よりは柔軟に考えられるようになれただけでも、ランチにしては少々高く付いたベーグルサンドが、これからの旅のことを考えると高くはなかったのかもしれない・・・と今でも思うことにしている。


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