『Journeyman』

 この話は2008年4月に書いてトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第7作目です。この話を加筆・訂正したものが2018年8月より、「50歳の誕生日を迎えた野茂英雄の想い出を語ろう」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56969)というタイトルで講談社現代新書のウェブサイトに掲載されています。合わせてご笑覧ください。

 海の向こうアメリカでも野球シーズン酣だ。大リーグに興味を持ち始めたのは今から20年以上前。インターネットなどその存在すら一般的ではなく、情報収集はスポーツ紙の片隅に載った記事、英字新聞、もしくは洋書店でかなり割高で売られていたアメリカの野球雑誌くらいしかなかった。それでも、ほぼ毎年シーズン開幕直後に雑誌を買い求め選手の異動などをチェックして驚いたり楽しんだりしていた。
 今では日本人選手が多数アメリカで活躍しているせいもありテレビでも新聞でも国内のニュースと変わらない早さで最新の情報を得ることが出来る。試合そのものもリアルタイムで放送され日本に居ながら楽しめる時代になった。
 日本において大リーグをこれだけ身近なものとして浸透させたのは間違いなく野茂英雄だ。1995年紆余曲折を経て野茂は海を渡った。その独特な投球フォームは「トルネード」と呼ばれ、「NOMOマニア」なる言葉が出来るほどの現象が起きた。長い間大リーグを観てきた者にとって、試合結果はともあれ、日本人がメジャーの試合に出ていることだけで衝撃であり感動だった。
 日増しに報道は加熱して行き、僕もテレビだけでは満足出来なくなってきた。4月にシーズンが始まり、6月には現地で野茂を観たくなっていた。「中4日」の登板をきっちりと守っていたので、スポーツ紙に載っていた「野茂登板予定試合」のリストを基に職場で大リーグ好きの先輩と後輩と観戦に行く計画を立て始めた。
 ホームのドジャー・スタジアム(ロサンゼルス)はブームの真っ只中なのでチケットはきっと入手困難、パドレス戦(サンディエゴ)、ジャイアンツ戦(サンフランシスコ)を敵地で観るのもロサンゼルスから比較的近いこともありパス、ニューヨーク(メッツ戦)はここも日本人が多いし「観光がてらの一見さん」もたくさんいそうなのでパスした。 さて、どこにするか。9月中旬にシカゴでのカブス戦が予定されていた。
 シカゴのリグレーフィールドは世界一好きな野球場だ。ここで観られれば最高だということでシカゴで観戦することにした。残念ながら先輩はその時期休みが取れなくなり断念。後輩は野茂登板予定試合前日にシカゴ入りするという慌しい日程ながらも休みが取れた。
 野茂は我々が観戦予定の試合間際に爪を割った。当番予定がずれて楽しみにしていた「野茂観戦」が「シカゴ観光」に変わるかと思われたが、一度登板を飛ばしただけで予定通りシカゴで投げた。
 当時約3年振りに訪れたリグレーフィールドは変わってなかった。リグレーフィールドには「野球は青空の下でやるもの」というオーナーの信念で1914年の開場から1988年までナイター設備はなかった。平日でも平然とデーゲームが行われていたのだ。ナイター設備が完備された現在でもデーゲームが多く組まれている。それでもファンはちゃんと観に来るのだ。カブスが好きというよりリグレーフィールで野球観戦を楽しむことが好きな人がたくさんいるのだろう。
 外野のフェンスには蔦が絡まっているのも趣があってよい。ドーム球場で偽物の芝生(人工芝)の上で行われている室内競技化したプロ野球を観慣れた目にはこのボールパークを観ているだけで新鮮だった。
 あの鬱陶しい鳴り物などもちろん無い。球場の周りには球場内を見渡せる高さのビルが立ち並びそれぞれ屋上には堂々と客席が設けられ「ただ見」をしている人達がいた。面白かったのは、そんな人達も試合開始前の国歌斉唱の時にはしっかりと起立していたことだ。
 こんなに素晴らしい野球の本場そのものの状況の中で歴史あるドジャースのユニフォームを着て老舗のシカゴ・カブスを相手に投げる野茂は本当に日本の「英雄」に見えた。勝ち負けはいいから思い切り投げてくれとそれだけ思いながら観ていた。
 隣の席に居たカブスのファンの人に「NOMOを応援に来たのかい?」と話し掛けられた。明らかに日本人と分かったのだろう。「カブスのファンだけど今日はNOMOを応援するんだ」と答えた。そうするとその人はにっこりと笑い、「ノー・プロブレム」と言った。きっとニューヨークじゃこうは行かなかっただろうなと思った。ますますシカゴが好きになった。
 その3年後にホームランを66本打ったカブスの看板打者サミー・ソーサから三振を獲った瞬間感激のあまり声を上げそうになったがその人の手前抑えた。
 大リーグではチームを転々とする選手のことを “Journeyman” と呼ぶそうだ。その後の野茂も全米各地を転々とすることになる。“Journeyman” 趣のある言葉だか大リーグの厳しさもしっかりと込められている言葉だ。
 次に野茂を見たのは2001年6月のミネソタのツインドームだった。ミネソタに出張に行った時に偶然ツインズの試合を観るチャンスがあった。ユニフォームがボストン・レッドソックスのものに変わっていた野茂は登板しなかったので投げるところは観られなかったが、試合前に練習している野茂をひたすら目で追い続けた。その3カ月後9.11のテロが起こり僕は失業、野茂は翌年古巣のドジャースへ復帰している。
 野茂がメジャーリーグへ再昇格したというニュースに喜んだのも束の間、先日カンサスシティー・ロイヤルズを戦力外になったというニュースが入ってきた。野茂はまた旅に出なければならなくなった。
 ある登山家は登山を続ける理由を尋ねられて、「そこに山があるから」と答えたそうだ。何度解雇され、戦力外通告をされても野茂はピッチャーを続けている。多くを語らない寡黙な大投手はきっと、「そこに登るべきマウンドがあるから」という思いも秘めているに違いないと思う。
 次に野茂と再会出来るのはどこだろうか?アメリカ、日本、それとも、韓国か台湾か? その時はどこのユニフォームを着ているのだろうか? また、自分はその時何をしているのだろうか? 旅は続く。


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