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総曲輪通りでつかまえて(2)照らされながらひとりで居ること

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立山はとても美しい。特に、冬の立山はぞくぞくするほど立体的で神々しい。でも、ときどき眩しすぎて困るのだ。

絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社,2022)

 コンパクトな富山の街はとても暮らしやすかった。限られた滞在期間であることは分かっていたので車は買わず近所のカーシェアを利用することにした。これでは普段の遠出はしづらいだろうと思っていたが、ライトレールが走っている市街地だけでひととおりの暮らしは完結する。もし市街地にないものが気になれば、休日にファボーレまで足を伸ばすか、金沢まで出てもいい。

 総じて規律正しい暮らしぶりだったと思う。動物園に通い続ける、というイレギュラーを除いては。

 東京に戻ってきてからよりもあの頃の方が動物園に執着していたように感じる。それはもしかしたら、「外部」を求める私自身の心が私を旅へと突き動かしていたからかも知れない。動物園はきっかけであり、誘因であった。

聖なる山が心の隅々まで照らしていたら、誰もかれも真面目になるわけだよ、単調すぎて人生がつまんないわけだよ、と心のなかで思うのだ。

絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社,2022)

 花ちゃんの独白と近しい感覚を私はひとりでいるとき、たまに抱くことがあった。仕事を通じ出会う人はみなそれぞれ真面目で、尊敬できる人たちだった。

 けれど、そう、わがままだと分かっていたけれど、私は時々遠出せずにひとりでいる時間がしんどかった。どこに行っても神の山、立山が照らしているという感覚は私自身の実感とも近しくて、何となく隠れることができない気がしていた。思い込みかも知れない。でも私をあの頃、旅に突き動かしていたのは「たびのひと」に対する周囲からのまなざしの密度への恐れだったのかも知れない。

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 『まっとうな人生』には、双極性障害を抱えて生きる花ちゃんがアーケード街の喫茶店で不調から回復したことに気づく場面がある。

 久しぶりに出かけると自分が富山の街を知っていることがとても不思議なことに思えた(中略)おそるおそる大和に行ってみたけれど、乱買の炎が燃え上がることはもうなかった。あたしはアーケード街にある喫茶店に入ってコーヒーを頼んだ。マスクを外して飲んだブレンドの香りは内側から気持ち良く自分を包んでくれた。

絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社,2022)

 富山市内は歴史の長い喫茶店が想像以上に多かった。グランドプラザ前の「チェリオ」には入口に古いコーヒーミルが展示されており、昭和10年開店、と説明が記されている。私自身もこの街での暮らしの後半、旅に出なくても自分自身でいられる場所だと気づいて、自信を無くしかけることがあった日にはしばしば喫茶店に居た。チェーンではなくて街にある喫茶店が良かった。

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 とりわけ、桜町の「小馬」が好きだった。オムライスはしっかりとしたボリュームがあって、デミソースもクリームソースも味わいが深かった。

 ひとりの時間をやり過ごすこと。「たびのひと」という不安定な自分を受け入れること。不器用なやり方でしかなかったけれど、怯えすぎずかつ放埒になりすぎず、居心地の良い場所を見つけてただ居る術を見出していった。