総曲輪通りでつかまえて(3)野鳥を眺める
『まっとうな人生』の中で花ちゃんが訪れる、射水市の海王バードパークは私も訪れたことがあった。「サンクチュアリ」の名の通り少し海王丸パークから離れたひっそりとした場所にあって、訪れるひとはまばらだった。親切なバーダー(「野鳥の会」の会員)が、あそこにミサゴがいますよ、と望遠鏡を貸してくれた。
富山県に来てから私は動物園だけではなくバードウォッチングにも精を出した。きっかけは立山の室堂を散策したときに偶然ニホンライチョウに出会えたことだった。自然の中で野鳥と出会うことができるのは喜びがあると知った。
富山市内だけではなく、県内各地で野鳥を見ることに適した場所があった。野鳥も、野鳥を観ている人も、私に関心を持ちすぎないでいてくれた。「たびのひと」への街なかでのまなざしを内心恐れていた頃の僕にとって、野鳥と無心で向き合う時間は穏やかでいられる時間だった。出奔するかのような衝動性を伴った動物園への旅よりもやましくなかった。
初めは知識がなかったけれど、識別できる種が増えてきた。オオバンやホシハジロは各地で見ることができて好きな水鳥だった。
環水公園の野鳥観察舎や高岡古城公園には何度も足を運んだ。富山を離れる直前、環水公園でパンダのような姿のカモの仲間、ミコアイサに会えた時は嬉しかった。
現実を生きる私の小説の中の花ちゃんとの違いは、私が野鳥観察のコミュニティや探鳥会などのイベントに最後まで参加しなかったことだった。思えば海王バードパークで声をかけてもらってミサゴを見たとき、もっと交流を深める機会もあった。環水公園での探鳥会の案内もSNSで見かけた。それをしなかったのは、「たびのひと」である私自身へのわずらわしさを感じながらも、同時にそれ以外の何者でもない「役なし」の自分でいられる状況に甘んじていたからに他ならない。
私の私的生活の中での関心は、私自身のテーマの探究に集中的に向けられていた。そしてその時間は私自身にとってとても幸福だった。だからこそ、私は「たびのひと」の枠を抜け出すことを躊躇った。
交流を絶とうとして絶ったわけではない。ただ、そのことによって得られたことと選ばずにこぼれ落ちていったものの両方について、コロナ禍の最中の断絶を経てどちらが良かったとも言い切れずにいる。
後になって、ということは数えたらきりがない。それでも自分が選択の結果得てきたものを大切にしながら進んでいくのが生きていく道なのだろう。