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幸福のページ

しあわせになるために 誰もが生まれてきたんだよ

さだまさし作詞作曲の「いのちの理由」、歌詞の一部だ。浄土宗から依頼を受けて、法然上人のテーマソングを作ったという。

さだまさしのライブの最後でこの曲を聞いたとき、その歌詞のシンプルさと、優しい目線で綴られたメッセージの温かさに、思わず目頭が熱くなった。

聞えの良いことばを聞かされただけだ。何かの問題が解決したわけではない。だがその時たしかに、歌そのものに幸せを感じた。

Q.どうせ死ぬのに何故がんばるの?

子供からこう聞かれたらなんと答えよう。僕が中学の頃、姉から得られた答えは「生まれて来ちまったもんは仕方ないだろう。頑張れ」だった。それもひとつの答えだ。

けれども、30近くになってもまだ、その境地へは至れずにいる。結婚もして、子供もいて、考える暇は無くなったと言えば無くなった方だろう。とりあえず当分は、「何のために生きてるの」と聞かれたら「家族のために生きてます」という言い訳はできる。

Googleで幸せについて調べると、高確率で遭遇するのが宗教のページだ。やはりそれだけ宗教は、幸せについての疑問に応える役割を担ってきた。

ただ、僕が人生の意義について考えるなら、そういった超人間的な存在を仮定せずにいきたい。できれば、勤行とか瞑想とか、ミサとかはナシにしてほしい(人生で4回ほど宗教の勧誘を経験して、まぁまぁ嫌な目に合っている)。

ふらふらと船を漕ぐうち、いくつか切り口を見つけた。
自分なりの切り口だが、どうも幸せには、

1.感情
2.欲求
3.評価


が関係しているようだ。幸せについて考えるとき、答えがシンプルすぎると綺麗事に聞こえるし、複雑すぎると混乱する。切り口は3つくらいがちょうどいい。

1.感情

人間に備わっているとされる感情を表す、喜怒哀楽という言葉がある。人間は幸せなとき、言うまでもなく「喜・楽」の二つの感情を覚える。では、これらの感情は何のために存在し、何処から来るのだろうか。

Q.なぜ人間には喜怒哀楽があるの?
┗A.生存に関係があるから。

脳には、扁桃体(へんとうたい)と呼ばれる領域がある。
扁桃体は感覚器で得た情報を、正・負の情動的記憶と結びつけ、体や脳に指令を出す。生存に有利な刺激(楽しい・笑顔・敬意を感じたなど)は正の感情、生存に不利な刺激(痛い・怖い・心配など)は負の感情。
扁桃体は生存にとって0か1かの判断を瞬時に行う
マイナスな感情とは、死に繋がる可能性のある刺激を受けたときに発する。

上図:ざっくりスケッチ。初めて描いたので許して

それに対して、前頭前野(ぜんとうぜんや)と呼ばれる領域は、記憶と感情の制御を行う。

例えば動物園で蛇を見たとき、「毒で死ぬかもしれない」と扁桃体が指令を出し、身震いする人もいるだろうが、「蛇はケージの中にいる」という状況を前頭前野で認識し、恐怖を制御する。

(『わたしヘビ、ダメなんですぅ』というタイプの人はこういうとき扁桃体が暴れるのだろう。『生理的に無理』を言い換えると『扁桃体レベルで嫌い』である)

「幸せ」とは、負の感情を減らして正の感情を増やすことなのではないか、ということになる。じゃあ、どうやって正の感情を増やし、扁桃体を喜ばせる?

「酒飲んでパチンコ。脳内麻薬でバッチリだぜ」
「マインドフルネスの観点から、前頭前野を鍛えるなら瞑想がベターな選択」
「GABA大量に食うと落ち着くらしいよ」

……まあわかるけど、なんかやだ。

と思っていたら、こんな研究があった。ネバダ大学のスティーブン・C・ヘイズ博士の研究によると、「アクティビティを一つ選んで、それを半分の速度で行う」のがいいらしい。

つまり、コタツから立ち上がって麦茶を取りに行くのに、それをスローモーションでやれというのだ。それだけで思考を休ませ、「今、この体感に意識を向ける」ことで前頭前野が鍛えられるのだと言う。

ジェダイのように瞑想しなくとも、ある程度は効果が得られるらしい。
(瞑想とスローモーション、どちらも人に見られたときのリスクは同じくらいだが)

イメージ:プライベートで瞑想している人

2.欲求

欲求という切り口で幸せを考えると、幸せな状態とはあらゆる欲求が満たされた状態である。古くはベンサムの功利主義にまでさかのぼるが、これは個人の幸福というよりは社会の幸福の話だ。

欲求の構造的解釈には、アブラハム・マズローの欲求5段階説が役に立つ。

アブラハム・マズローは1908年にニューヨーク市で生まれた。ユダヤ人の貧困家庭だったという。(だから何というわけではない。そのあたりの年代とニューヨークが好きなだけだ)

マズローによると欲求は5階建てで、下から順番に満たされていくものだという。

生理的欲求…食事や睡眠、排泄など。
安全の欲求…脅威や危険の無い暮らし。
所属と愛の欲求…他者に受け入れられている感覚。
承認欲求…他者に自分の価値が認められている感覚。
自己実現の欲求…社会に自分の価値が認められている感覚。

マズローは、人によってこれらの順序が変わるとも言っている。どれも先程の「正・負の感情」で説明できないわけでもなさそうだが、マズローによると欲求には明確にランクがあって、ある程度まで満たされていても、次の階へ行かなければすぐに新しい不満が生じてしまうらしい。

前述した生存に直結する欲求といえば、生理的欲求と安全の欲求くらいだろう。それが満たされたからといって、幸福とは言えない。僕たちは道端で滅多に蛇に出くわさないものの、だからといって道端で蛇に出くわさない安全な生活を享受していることに特段の幸福感は感じない。

恋に勉強に、悩みが尽きないのが現実だ。

自分の欲求が分かればまだいい。
その欲求を満たすために頑張ればいいからだ。
問題なのは、自分自身が何を欲しているのかよくわからない状態である。

汝自身を知れ。
──デルフォイ神殿の碑文,ギリシャ

パワハラの温床だった前職から離れた僕もそうだ。
現職はその時に比べれば遥かに、客観的条件は改善しているはずなのだが、僕は今その待遇に幾ばくかの不満を抱いている。

転職してしばらくは、その有り難さを噛み締めていたのに。
良くも悪くも、脳は学習し適応する。

幸せのためには、欲求を満たす以上に、自分の欲求がどこまで満たされているのか、何が満たされていないのかを自覚することの方が大事なようだ


(自分の欲求を知るとは、若い人が自分探しの旅と称してインドとか行くやつかな。という偏見がおれにはある)

3.評価

自分の欲求の現在位置によって、または扁桃体の情動記憶との結び付きの強さによって、同じ体験でも人によって幸福と感じるか否かの評価が異なることはもう既に分かったと思う。評価については、さらに興味深い研究がある。

アメリカの心理学者ダニエル・カーネマン教授によると、年収420万円までは、年収が増えると共にストレスが減り、そこからはストレスの減りは無くなるものの幸福度が増す。
さらに800万円まで増えると、幸福度も頭打ちになり、それ以上は年収がいくら増えても上がらなくなるという。

年収ベースでの生活の充実度、たとえば海外旅行だと、年収800万円の人が行く20回目の海外旅行よりも、年収420万円の人が行く初めての海外旅行の方が、体験に対する評価が高いのは想像がつく。

それに加えて、カーネマン教授は「人間は本人が体験した事象に対して評価を下すとき、体験の内容そのものに関わらず、最初と最後の出来事を重視する傾向がある」という。

デートがどんなに魅力的な体験だったとしても、集合時間に遅れたり別れ際にケンカをしてしまうと、そのデートは一気にネガティブな体験になる。また、仕事に入る前に一杯のコーヒーを飲みながら当日のto doを確認、終わり際には翌日に持ち越した仕事の確認を行うなどすると、当日の仕事量は変わらずとも「良い仕事をした」感を覚えるらしい。

人間のバイアスを利用した方法論として、予防医学者の石川善樹氏は自身の著書「フルライフ」の中で、「週始まりが土曜日のカレンダー」を提案している。

土曜日始まりを意識するだけで金曜の夜は早寝をするようになる
→充実した土日を過ごす
→週の中頃、月曜日から仕事
→金曜の夜に呑むと土日に障るので、花金の代わりに「花木」
→金曜は朝から眠いので、夜はよく眠れる
→充実した土日を過ごす……

僕のようなシフト勤務者は、取り敢えず休みの日を週の始めとして認識しなおすことで、一週間の体験に対する評価を上げることができるらしい。 うまい話だ。

これまでの話で得た結論としては、

1.冷蔵庫の麦茶を取るときはスローモーション
2.自分の欲求が何なのか、明確にする(道に蛇が出ない幸せを噛み締めるのは忘れずに)
3.休みの前日は早く寝る(初めての海外旅行のウキウキを忘れずに)

となるだろう。
幸せが何なのか、とうとう分からなくなってきた。

更問.どうせ死ぬのに何故生きる?

冒頭の質問に戻る。
人生の意義」とは何か。

これまでの考察は「こういう傾向がある」というだけの話であり、人生の意義については何ら答えてくれない。

歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏も言っている。

これまでに分かっているところでは、純粋に科学的な視点から言えば、人生にはまったく何の意味もない。
──「サピエンス全史」下巻

人間ひとりの人生など、無限に続く時間、無限に広がる宇宙の中では何の意味も持たない。

それでも世の中の多くの人は、人生に何らかの意味を見出だし、生きている。

それは何故か。
生物学的には、DNAの保存と複製の為に、生への執着が強いものほど生き残れるようになっている。それだけだ。
某かの目的を持っている者がいたとしても、それはたんなる妄想に過ぎない。

「私は家族の為に生きています」
「私の人生の意義は、社会に何らかの変化と価値をもたらすことです」

ありがちな言葉だが、これらは全て妄想だ。

幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させるものなのかもしれない。
──「サピエンス全史」下巻

上写真:ユヴァル・ノア・ハラリ氏(相当な自信がないとこのポーズはできないだろ)

僕が思うに、どうせ死ぬのに何故頑張って生きるのかという疑問は、周囲の提示する「こうあるべき幸せ論」的なものにまったく共感できない、生への執着が薄い人が持ち得る疑問なのだと思う。

Q.どうせ死ぬのに何故生きるの?
┗A.重要なのはその問いではなく、
「 何故その問いがあなたから湧いて出たのか」です。

「こうあるべき幸せ論」とは、教育、マスコミ、家族など、周囲のあらゆるものから規定される。(ゼクシィの表紙とか、見ててイライラしませんか)

大学に入る。大企業に就職する。起業し、マス向けのサービスを作る。結婚し、子供を産む。

みんなの考えるこういった幸せ論を、何となく馬鹿馬鹿しいように思う。もっともらしい妄想であるということを、ひょっとしたら見抜いているのかもしれない。

自分の子供からこの疑問が出たら、親としては喜ぶべきなのかも、と前向きに考えてみる。

きっと強い生き方はできないけれど、世間の人が気付かない、でも大切な何かに目を向けられる存在になるかもしれないから。

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