まわりの人(7)さいごに

 叔母を中心にした家族の話。をしようと前回まで書いていたけど、あまり家族には広がらなかった。それほど、今となっても自分にとって彼女は不思議な存在だったのだろう。今回が最後になる。

苦しいとは言えず
 叔母は酸素吸入をするようになった。とはいってもベッドに横たわりマスクをするのではなく、鼻カニューレ(これを書いているときに名前を知った)をして、足元には酸素ボンベを配置するものだ。
 叔母は服のタグや少し伸びた髪も嫌がった。神経質なのだと祖母は不満を言うこともあった。その酸素吸入器は見ているだけで煩わしそうなものだったが、叔母は特に気にした様子もなかった。母も祖母も「表情が全然違う。今まで苦しかったんだな」と喜んでいた。
 心臓がもともと弱いことは知っていたが、苦しくないときを知らなかったからなのか、「息が苦しい」と伝えることができずに今まで生活していたのだ。苦しさを取り除くためにこんな大げさな機械が必要だったと考えると、気が遠くなった。

電話
 祖母の家にも年に数回しか訪れなくなった。お正月、祖母の家に行くと叔母がいる。私はいつものようにあいさつをしに行く。すると、名前を間違えられる。でも、これが初めてではないかと心の中で思う。叔母はまじまじと私の顔を覗き込む。すると一言「かっこよくなったなあ」。叔母の中では、私はまだ赤ん坊だったようだ。すでに成人してから数年が経っていたが、ようやく、叔母は私を男性と認識したらしい。母と祖母にそのことを伝えると、いつものように大笑い。
 そうしてだんだん、私が叔母に会う場所は、母の話の中に変わっていった。母はたびたび叔母を連れ出し、あいかわらず恒例の旅行に出かけていた。「これが最後になるから」という毎回の謳い文句は現実味がなかったのだが、今思えばそれは母の「そうならないで欲しい」という願望と、そうなってしまったときの防衛との間で揺れていた言葉だったからだ。
 冬のある夜、母から電話がきた。「ゆうこがしんだ」と一言目。「またこの後のことは連絡する」と伝えられ、電話は終わった。数日後、叔母を囲んで家族は集まった。

蝉の話
 8月に、家族はまた集まった。街が一望できる丘の上で一通り済ませ、私たちは家に戻った。しばらくすると母は外に出た。お昼過ぎ、蝉が鳴き続ける。玄関先にしゃがみこむと、母は小さな火をつけた。家族で何かをするとき、いつも後ろで「やりたい人がやればいい」と見ていた母が主となって何か行動をすることは珍しい。
 送り火は、すぐには燃え尽きなかった。火をつけ、消えてはまた火をつけを繰り返した。「よし、これでいいな」と母が自ら終わらせたとき、家の壁にとまっていた一匹の蝉が飛んでいった。そこにとまっているとは誰も気づかなかったが、鳴き止み、飛んで行くときにそこにいた全員が気づいた。
 こういうとき、決まって母は特別なものを信じるような言葉を言う。私はいつも「はいはい」と聞き流していた。このときも例の通り、つぶやいた。
 「やっぱりいたんだなぁ」と母の言ったことと全く同じではないけれど、私も、この時だけは特別な気持ちになった。


 私と叔母の出会いから、不思議なことは続いた。きっと母も、祖母も、私には想像もつかない気持ちを経験したのだろうと思う。祖父はあいかわらずだ。
 今でも、祖母の家に行くと昔のおもちゃがある。この先誰かがそれをおもちゃとして手に取る時がくるのだろうか。叔母の目を盗んで遊んだあの時の興奮は、もう誰も味わうことはできないが。
 叔母との関わりを思い返してみたが、これまで家族にも、誰にも詳しく話すことのなかった私の見たものを書いてみた。これだけでは到底、家族を語ることはできなかったが、やはり私の家族の中で大きな存在だったことは確かだった。
 もうすぐ叔母との別れから一年が経つ。家族はどのようになっていくのだろう。

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