まわりのひと(6)

 叔母は自分の家族について冗談なのか本気なのか、とにかく笑えるぐらい機能的に見ていたということを前回思い出した。ダウン症とういうのはどうやら染色体の異常で、そういう体の構造(染色体の「数」という量的なもの)が私とは違うのだと後になって知ることになった。その違いによって、叔母は特別な存在として扱われていたのだ。
 ただ、叔母は私が物心つく前から居るわけであり、些細な違いかもしれないが私にとっては「ダウン症の叔母がいる」のではなく「叔母がいて、彼女はダウン症をもっている」というぐらいであった。そのため、旅行先でたびたび何か異質なものを見るように叔母に向けられた周囲の視線にも、当時は鈍感なほどに気付かないか、理由がよくわかっていなかったのだと今ふと思う。

作文コンクール
 私が叔母について「語らない」ことは、小学校や中学校の時代にはなんら後ろめたさはなかった。むしろ、友達との会話で自分の母の妹について能動的に語るということは一般的にないだろう。そんなわけで、私はべつに周囲に隠すわけでもなく叔母の存在を知らせることはなかった。
 それが、高校時代になると自ら語る機会があった。夏休みの宿題で、作文を書かなくてはならなかった。夏休みのことを今思い出せと言われても何も思い出せないぐらい、特に何もなかった日々で作文を書かなくてはならないのは想像するだけで苦痛だろう。夏休みの終わりに、私は書くことを探していた。
 何か自分だけの経験はないかとぐるりと考えると、見つかったのは叔母のことだった。当たり前だが、そんな動機で思い入れのあるものが書けるはずもない。ただ叔母を持ち出して、「みんなとは違う」ということのみに価値を持たせてマス目を埋めていくだけの作業だ。
 夏休みが終わり、集会で全校児童が集まっていた。よく覚えてはいないが、なにか立派な作品を提出した人たちが名前を呼ばれている。作文の話題になったとき、私は名前を呼ばれた。その理由はよくわからなかった。
 私ともう一人、作文で名前が呼ばれた人と並んだ。集会が終わった後、担当の先生に二人は呼ばれ、簡単な説明を受けた。説明によると、別に賞を取ったわけではなく、学内で「良い作文」とされて校外のコンクールに出すらしい。もう一人の彼も、自分が呼ばれた意味がよくわかっていない様子だった。終わった後、彼にどんな内容の作文を書いたか聞いてみた。するとなんと、彼も家族の「変わったこと」について書いていたらしい。なんだ、そういうことかと思った。
 けっきょく、しばらくたって彼と「そういえばあれ、どうなったろうね」と一言交わしたが、私が叔母について書いた作文はなんの音沙汰もなく、気付けば2学期も終わっていた。作文は提出したあと、私の元には戻って来なかった。どこの誰に読まれたかもわからないし、それを読んだ数少ない人は何を思ったかもわからない。ただ、私はそれでよかったと思った。

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