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スクールカーストの外の変なところにいた気がする

たまたまYouTubeのレコメンドで流れてきたこの動画を見たときに、10代の自分に見せたら何を思うのかなと思った。
(気がついたら動画非公開になってた。確か見取り図の番組にロングコートダディが来てて、若者の悩みをコントで解決するみたいな企画をやってて、その収録が終わったあとにロングコートダディのお二人が、スクールカーストについて悩んでる子に声をかけていた)

兎さんの「楽しい?学校」からの「スクールカーストってなに?」という素朴な言葉が、もうそれだけで何人もの悩みを抱えてる人を救えるんじゃないかと思う。
それに続く堂前さんのスクールカーストに対する解釈も素晴らしくて(ピラミッドじゃなくて、平面に色んな円が存在しているみたいなものだから、というようなことを言っていたような気がする)、ロングコートダディはカウンセラーか何かですか?と思った。10代にとって、学校はすなわち世界のようなものだと思うから。本当は学校は世界ではないのだと気付くときはそこから離れてからだ。

私が中高生の頃、スクールカーストみたいなのがあったのかどうかは正直覚えてない。友達グループみたいなのがあったことは何となく覚えているけど、でもそのグループがどういう距離感で教室に存在していたのかも分からない。部活の友達とは話すけれど、クラスメイトとどういうコミュニケーションをしていたかも、記憶から消えている。何故かというと、普通にあまり教室にいなかったからだ。保健室の記憶はあるけど、クラスの記憶にはもやがかかっていて、本当に何も分からない。

彼女たちに共通して抱いていたのは、勉強も部活もよくできる人たち、という印象で、私はどっちもできなかったので、まあ教室からフェードアウトしてしまうのも仕方がないといえば仕方がないということにしたい。

遡って考えてみると、小学校の時点でもう「集団」というのがめんどくさくてたまらなかった。仲良しグループみたいなのがだるくて、20分休みと昼休みは教室のメダカの水槽を一人で眺めていた。
中高も「集団」がめんどくさくて、例えばお弁当はある時から一人で普通に食べてたし(部活の昼練に出なきゃいけなかったのもあった)、教室移動も一人でふらふら行ってたし、特定のグループに属してるわけでもなかった、と思ったけど本当はどうだったかが分からない。とにかく記憶がないので。
大学に入ってからも、授業を一緒に受けるとか、ご飯を一緒に食べる、みたいなのがめんどくさくて、一瞬気にしていた時期もあったけど、ゴールデンウィークを抜けたあたりからだろうか、1コマ終わったら次の授業の教室に移動してそこでご飯を食べて、授業を受けて、ほぼ誰とも会話をせずに即帰ることもたびたびあった。サークルも、週1で集まるみたいなのが無理すぎて入らなかった。

どこかで、自分は余り1になる人間なんだなと思っていた。3人いたら、2人が話しているのについていく。5人いたら、2,2で話しているのについていく。そういうことが多かったので、後々小林賢太郎の『うるうびと』を見たときはぐっさりと刺さってしまって、今でもたまに見返す。

全部の学生時代を考えると、一番マシだったのは大学だった。教室に同じメンツで1年間固定される制度がある高校までは本当につらかった。というのもあり、まあ、抜け出したのだけど。

何かに所属してしまうと、それは「集団」になる。社会人になってからも、たびたび所属先を変えていたので、会社版スクールカーストみたいなのがあるのかは分からない。

何かに属することで守ってもらえることは沢山あるということは、フリーランスになってからすごく実感しているのだけど、でもそのメリットよりも、私は一人でふらふらとしているのが性に合っているのだと思う。一人で、色んなところと接続する。それは学生の頃のふるまいと同じだ。

グループに所属してなかったと言うと、それができるのはすごい強いと言われることもあるけど、強いわけじゃなくて、その選択肢しかなかったなと思う。
所属することで楽しいことももちろんあるのだろうけど、私はいつも余り1になりがちだったから、まあこれでいいかと諦めた末に今があるように感じる(そしてこれでいいか、と思ったのは『うるうびと』が大きなきっかけになっている)。

ふらふらしていると、ふらふらしているなりに色んな人と知り合うこともあったりして、それは結構楽しい。色んな「集団」から逃げてきた結果がここならば、まあ逃げてきたことも間違いではないんじゃないかなと思う。

間違いではないと思うよ、15歳の私よ。


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