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『万葉集』にみる、「雨」はどのようなものであったか。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

互いに音の異なる仮名を、重複せずに網羅したいわゆる「いろは歌」である。

文献上で初めて見られるのが、承暦じょうりゃく3年(1079年)に成立した抄本『金光明最勝王経音義こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ』という、経典辞書だ。少なくとも11世紀には存在した歌であり、弘法大師空海の作とされている・・・・・

この「いろは歌」に濁点を加えたものが、今の我々にとって馴染み深いものに近い。

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 今日超えて
浅き夢見じ 酔ひもぜず

【現代語訳】
花は咲いても散ってしまうのに
永遠に同じ姿でこの世に居続ける人はいない
辛く、厳しく、険しい人生という山を今日も乗り越えて
酔っ払っているかのように、真理から目を遠ざけ、儚い夢を見ないように

といった現代語訳が充てられる。

一語一句たがわない音で、桜が満開を迎えてから散っていく様を人間の一生に置き換えている。まず桜が咲くことを「色が匂う」という、色で切り取っているのが良い。

ついでに紹介したいのが、『古今和歌集』の343番にある歌である。

わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほと成りて苔のむすまで

『古今和歌集』
『新編日本古典文学全集11』小学館 1994年 148ページ

皆さんご存じの国歌「君が代」のもとにあった歌である。「細れ石」とは小石のことであり、「巖」とは大きな岩のこと。この土地の守り神に対し、小さな岩が大岩となり、苔をまとうその日まで見守ってほしいという願いが込められている。

と、ここまでが前段で、最近小説を書くことを覚えた僕は、創作活動に際し、とくに情景描写を書くのに、何か参考になるものはないかと探した結果、その最たるものが『万葉集』にあった。奈良時代に成立した現存する最古の和歌集である。「万の葉に伝えらるべき集」という意味がこめられている。5・7・5・7・7という少ない文字数の中に、風景や気持ちを切り取り、そこにどれだけの想いがこめられているかを、『万葉集』を読み進めていくとそのすごみを知る。

そして、創作活動をするうえで、参考資料として挙げるならば『万葉集』なのである。そうわかった僕は時折、『万葉集』を読み漁り、情景描写が良いと思った歌を蒐集している。その中の何首か紹介し、小説など、創作活動の参考になれば良いと思う。

『万葉集』の原文は漢文のため、引用は書き下し文で記し、併せて現代語訳も書いたので併せて読んでほしい。引用もとはすべて『新編日本古典文学全集』(小学館)の『万葉集』から採っている。(全国の図書館で容易に手に取って閲覧ができるためだ。)なお、現代語訳は同じくそれに則って僕なりにわかりやすくした。

あくまで個人的な解釈になっているので、真面目な学術的なことを学びたかったら、専門書や注釈書をご覧下さい。noteというプラットフォームでは、いろんな方に読んでもらえるよう、少しでも興味深く読んでもらえるように努めたつもりだ。

時節柄、春雨の時期、そしてこれから梅雨の時期を迎える。雨に鬱々としている人も多いだろう。なので今回、『万葉集』でみられる「雨」の情景を詠んだものを紹介していく中で、「雨」が歌の中でどのような役割をなしていたのか探ってみたい。


【読み下し文】
鳴る神の しましとよもし さしくもり 雨もふらぬか 君を留めむ

【現代語訳】
雷がちょっとだけ鳴り、かき曇り、雨でも降らないかなぁ。あなたに会いたい。

『万葉集』巻12 2513

【書き下し文】
鳴る神の しましとよもし 降らずとも 我は留まらむ 妹し留めば

【現代語訳】
雷がちょっと鳴ったりして雨など降らなくたって、私はここにいよう。あなたが直接引き留めてくれるなら。

『万葉集』巻12 2514

こちらの2首は問答という形でセットで詠むものである。

この2首は三十六歌仙の1人であり、『万葉集』を代表する歌人・柿本人麻呂が詠んだ歌である。雨が降っていることはどうでもよくて、何か理由につけて一緒にいたいという想いがいじらしい繊細な歌である。2513番は、男が雨が降ることによって帰れぬ状況にならぬかと願っているのに対し、2514番では、(女は)「直接すがってくれるなら」と、応じている。相手の間接的な姿勢を否定して、すがって甘えなければ帰ってしまうという気持ちを暗示しているとも読み取れる。何か具体的な場所を想定すべきかもしれない。ちなみに新海誠監督『言の葉の庭』では上記の歌が取り上げられている。

【書き下し文】
春雨はるさめあらそひかねて がやどの 桜の花は 咲きそめにけり

【現代語訳】
春雨に逆らえなくて、家の庭の桜の花はほころび始めた。

『万葉集』巻10 1869

この「争ひかねて」はここでは「抵抗する」という意味で用いられている。春雨が桜の花に咲け咲けと催促するのに対して、桜が拒んでいるように擬人的に表現している。花がまるで命を吹き込まれたかのようである。そしてそれがそのまま人間の心の内を表している。

【書き下し文】
春雨は いたくなそ降りそ 桜花さくらばな いまだ見なくに 散らまくしも

【現代語訳】
春雨よ、これ以上降ってくれるな、桜をまだちゃんと見てないっていうのに散ってしまうではないか。

『万葉集』巻10 1870

せっかく満開に咲いた桜が突然の大雨で散ってしまったら惜しいですよねぇ。

【書き下し文】
あさもよし 紀伊く君が 真土山まつちやま 越ゆるむ今日けふそ 雨な降りそね

【現代語訳】
紀伊へ行くあの人は、今日あたり真土山を越えるはず。雨が降らないといいなぁ。

『万葉集』巻9 1680

この歌は夫を旅に送り出して家に待つ妻の歌である。今頃、夫がいるであろう真土山を眺めながら夫の身を案じている。雨が降る中の登山は危険なのである。

【書き下し文】
春の雨に ありけるものを 立ちかくいも家道いへぢに この暮らしつ

【現代語訳】
今日は好きなあの娘の家にいくはずが、雨が降ってきて雨宿りしていたら日が暮れてしまったよ。

『万葉集』巻10 1877

傘…というより、この時代は笠を頭にかぶるのだが、びしょ濡れな格好で好きな女の子の家にいくわけにはいくまい。雨で行く手を阻む男の憂う気持ちが伝わってくる。

【書き下し文】
背子せこひてすべなみ 春雨はるさめの 降るき知らず でてしかも

【現代語訳】
あなたが恋しくてたまらず、雨が降っているのも忘れて家を飛び出してきたのです。

『万葉集』巻10 1915

すごいドストレートな恋の歌で驚く。雨が降ってもお構いなしの様子だ。雨が降っていようと、この恋には勝るものはない。直前の1877番の歌とは両極端である。

『万葉集』の中で「雨」について詠まれている歌の特徴として以下のように挙げることができる。

①人の行く手を阻むもの
②雨の経過による花の満ち散りを詠んだもの
③雨によって引き起こす人間の情緒を描く

つまり、人間の不安や悲哀を述べるのに雷や雨などがよく持ち出されるわけである。

今週はここまで。何となくで読んで「エモい」というのは簡単だが、じっくり読んで考えたその先にその歌の味わいが出てくるのである。これが鑑賞である。



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