パルメニデス(前5世紀)⑥ 一の肯定・多の否定

あるものは、

① 生成されず
② 生滅もせず
③ 運動変化もしない

ということになると、演繹的に一つの結論が導き出される。
それは、

あるものは「一」である

ということである。

生成変化しないのであるから、時の経過という概念とは切り離された存在であり、永遠にある。
そして、運動しないのであるから、常にそこに留まっている。
そうなると、あるものが複数存在するということは論理的に有り得ず、ただ一つのものがある、ということに結論付けるしかない。

この「一」なる思想は、言うまでもなく、後の新プラトン主義、プロティノスの「一者(ト・ヘン)」へと引き継がれることになる。

ところでパルメニデスは、この「一なるもの」をもう少し詳しく思い描いていたのであろうか。それについては、このような段片が残っている。

「それ(あるもの)はあらゆる方向において完結していて、まるい球のように、中心からどの方向にも等距離にある。」

この表現は、少々残念である。
もう少し捻って欲しかった。
空間という概念に拘束されているではないか。
どうせなら、時間と空間すらも虚妄であるとぶった切って欲しかった。

オカルトな話ではなく、スピリチュアルな話でもなく、この世界は多次元である可能性が高い、と聞いたことがある。
私は理系ではないので詳しいことは理解できないのだが、どうやら重力というものが不可解な現象であって、この三次元世界と、別の次元世界の間を行ったり来たりして作用している、という話を聞きかじったことがある。

私の勝手な想像であるが、私たちが直観しているこの世界は、いわゆる三次元世界である。そして、ひも理論(?)が本当だとすると、この世界は全部で確か十一次元あるらしいのだが、それぞれの次元は、この三次元世界とは別の場所に存在するのではなく、この世界が多次元であって、その中で私たちが五感を通じて感知できるものが三次元世界である、ということではなかろうか。
そう考えると、タレスから始まってヘラクレイトスに至るアルケーの探究は、まさしく私たちが事実として知覚している三次元世界の探究であって、パルメニデスはそれが多次元をも含めた上での真実ではないことに気が付いて、待ったをかけた。アルケーが「ある」ことを前提として話を発展させていくのではなく、そもそも「ある」とは何ぞや、という根源的な問いを突き付けたのである。
その根源的な問いの答えを導くためには、五感の知覚からは一旦距離を置いて、理性のみを働かせる必要があったのである。そして、何とかここまでの回答に辿り着いたのである。
オチの円い球云々は少々残念であるが、まずはブラボーである。

このパルメニデスの業績は、当然ながら当時の人々にすんなりと受け入れられることはなかったようであり、弟子のゼノンが色々と命題を考え出して、私たちの感覚が誤作動を起こしていること、あるものが生成消滅するだの運動変化するだの、そういうことは虚妄であるということの証明を行った跡が残っている。いわゆるアキレスと亀などの命題である。
よって次回は、このゼノンについて取り上げてみたい。

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