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2月に観た展覧会(旅)

2月、倉敷へ旅をしました。

メインの目的地は、大原美術館です。


大原美術館

大原美術館は1930年(昭和5年)、日本初の西洋美術のコレクションを中心とした私設の美術館として、岡山県倉敷に設立されました。
設立者は倉敷出身で、倉敷紡績株式会社(クラボウ)二代目社長を務めた実業家、大原孫三郎。

孫三郎には書画や骨董の趣味もありましたが、西洋美術について特別明るい、というわけではありませんでした。そんな彼が倉敷に西洋美術の美術館を創ったきっかけには、友人である児島虎次郎との出会いがありました。

孫三郎の父、倉敷紡績創業者である大原孝四郎が設立した奨学金制度に、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の学生であった虎次郎が奨学金の申請に訪れます。孫三郎は虎次郎の誠実な人柄に惹かれ、その後二人は画家とパトロンという枠を越え、生涯を通じた友となっていきます。

「エヲカッテヨシ カネオクル」

虎次郎は孫三郎の勧めで三度、ヨーロッパへ留学しています。

二度目の留学の際、自身の画業に務める一方で、日本の芸術家たちのために西洋の優れた美術品を収集し持ち帰りたいと孫三郎に願い出ます。
元々、虎次郎自身の画業の刺激になるようにとの目的でヨーロッパ行きを勧めた孫三郎は、当初この願い出に対し返事をしませんでした。
しかし、諦めずに頼み続ける虎次郎の熱意に少しずつ考えを変え、最初の願い出から1年余りを経て、虎次郎に作品購入のために資金を送ります。

「もう一度絵を買いに行って下さらんか」

孫三郎の許可を得た虎次郎は、モネやマティスのアトリエを直接尋ねるなど、熱心に良い作品を買い集め帰国します。
帰国後、倉敷市内の小学校を会場に持ち帰った作品を披露する展覧会を催すと、全国から観客が押し寄せます。この様子を見た孫三郎は、日本の芸術家たちのために、と虎次郎の言っていた意義を確信し、今度は自分から虎次郎に作品の収集のために三度目のヨーロッパ行きを依頼します。

こうして、日本の地方都市である倉敷に、世界的にも貴重な名画のコレクションが形成されていきました。

AM倉敷(Artist Meets Kurashiki) vol.17
高松明日香 ― 光は世界を駆け巡る

さて、そんな来歴を持つ大原美術館。
近代西洋の優れた作品が観られる美術館。という認識で訪れたのですが、その期待値を見事に超える鑑賞体験でした。

大原美術館ではその豊かなコレクションの展示と並行し、AM倉敷(Artist Meets Kurashiki)と題して、現代の作家が倉敷との出会いを通じた作品制作と展示を行う取組をしているそうです。
訪れた日は、高松明日香さんと言う作家さんの展示が行われていました。

最初の展示室に一つ目の作品があり、自身による絵画と、他の複数の異なる絵画を、色調、タッチ、描かれている主題など、共通する要素をもとに構成し、展示していました。
一瞬、絵を並べただけに見えるのですが、元々異なる来歴の絵画たちが、それぞれ一つのピースとして、大きな物語を紡いでいるように感じさせる素敵な空間を構成していました。色々な曲を繋ぎ合わせ音楽空間を作るDJみたいでカッコイイ。

中でも圧巻だったのは、「月と関係する」と題された作品でした。

エル・グレコ「受胎告知」そして「月と関係する」

展示の順路を進んでいくと、エル・グレコ「受胎告知」の展示された部屋へきました。多くの来館者が、大原美術館といえばこれだよね。と期待する館を代表するコレクションです。
そして、高松明日香さんの展示も構成されていました。
最初は、世界的な名画と、現代の作家の作品を同じ空間に並べる趣向が挑戦的で良いな、くらいに思ったのですが、よく観ていくと、そもそも「受胎告知」も含めた構成が、一つの作品になっている事がわかり驚きました。

部屋の正面に配置された「受胎告知」は、聖母マリアが大天使ガブリエルに自分が神の子を身籠ったことを告げられる聖書のワンシーンを描いた作品です。

両側面の壁には、寝息を立てて眠る男の子の絵が一枚ずつ。
同じ構図の絵ですが、描かれている男の子の年齢は一枚が3歳くらい、もう一枚は5歳くらいでしょうか。天使の面影を残す寝顔が、大きくなるにつれ、一人の人間としての姿に変わっていくことを想起させます。

向かい側の壁には、憂いをたたえた少年の肖像や、荒々しい自然の風景などが配置されています。寝顔を見せていたあの子が、その後どんな人生を歩んだのか、その足跡を辿るように、やがて景色は月へ辿り着きます。

あの子は、月へ行くことを夢見て生きたのか、それとも実際に月へ行き、人類とって大きな一歩を刻んだのか、それはわかりませんが、いずれにせよ、あの男の子の人生の物語は、母親がこの子の命を宿した事から始まっている。

この部屋にいることで、その物語の中に入り込んだような感覚になり、しばらくそこから動く事ができませんでした。

「子孫は先祖の誤りを正すためにあるんじゃ」

孫三郎は、息子・總一郎に会社を継がせる前に、二〜三年、世界を旅して見て回るよう命じます。しかしそれを役員会にはかると、
「まだ若すぎる」
「会社のことをもっと経験してからでも遅くない」
「たった一人の後継者なのに、なにかあってはあぶない」
と、役員全員が反対しました。
それに対し、孫三郎が言った言葉です。誤りを見抜く見識を養うには、洋行し見聞を広げることが手っ取り早いのだと。

そんな孫三郎の意志を受け洋行し、その後会社を引き継いだ總一郎は、戦中、戦後の経済の大混乱の中でも新しい挑戦を続け、また昭和二十二年には物価庁次長(現在でいう経済企画庁次官)の役職を務めるなど、戦後経済復興のキーパーソンの一人として活躍していきました。

会社だけでなく美術館の運営も引き継いだ總一郎は、ただコレクションを守っていくことのみに留まらず、「美術館は生きて成長していくもの」と信念を掲げ、元々のコレクションに連なる近代西洋の作品の拡充に加え、日本の作家の作品や、民藝品なども収集。また新しい美術の流れにも目をむけ、「革新的なものを」と、独自の審美眼でコレクションを充実させていきました。

先人の遺産のみに安住せず。現代の作家が、その貴重な遺産を使って新しい表現を生み出すことを後押しする。

大原美術館には、今も總一郎の革新というイズムが受け継がれているように感じました。

「やる可し、大いにやる可し」

大原美術館があるのは、江戸時代からの街並みも残る倉敷美観地区。多くの観光客が訪れます。昔からの景観を守りながらも、その雰囲気を崩さない新しい建物もあったり、またそこにいろんなお店が入っているのが、とても良いなと思いました。

老舗の喫茶店、伝統的な和菓子のお店。そこに若い主人が営むコーヒースタンドや、スイーツなどのお店が混在している。一歩路地の奥に入ると、雰囲気のいいレストラン。

ただ古いものが残っているから、人を惹きつけているわけではない。
歴史的な作品があるから、それだけで人を惹きつけているわけではない。

街全体にも、大原家のイズムが息づいているような気がします。

また訪れたいです。

読んでくださってありがとうございました。




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