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大学入試改革の停滞について。

2020年からの大学入試改革に超わくわくしていたので、悲しいです。

内閣人事局長として官僚の人事権をにぎり、『忖度』を誘発した、でおなじみの萩生田氏が、あろうことか9月の内閣改造で文科相になった。
顎がはずれるほど驚いた。と同時につよい失望を感じたものです。

わかっていたことですけど、安倍晋三には教育改革を推し進める気はまったくない。せめて邪魔だけはしてほしくなかったのですが、お友達の萩生田を適当に文部科学大臣に配置したせいで見事に大迷惑なことになっております。

萩生田があいちトリエンナーレの補助金不交付を決めた際の会見で、あいち「トリエンターレ」と発言したのをみて「ああ、こいつガチで終わってるわ」と感じておりました。8月ならまだしも、開催一ヶ月以上経過して議論沸騰している当該芸術祭の名前をちゃんと言えないというのはね、その時点で犯罪級ですよ。

まあそれはそれとして、憲法違反とも受け取れる「身の丈に合わせて頑張ってもらえば」発言はもうなんというか、救いようがない。

で、勝手にあばれて勝手に去るのならいいんですけど、ヒステリックに「英語民間試験導入延期」と。自分の不始末を制度のせいにして片付けると言うね。まあ会社とかでもありがちな超かっこわるいムーブです。

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しかしまあ、改革には摩擦がつきものでして、萩生田うんぬんを抜きにしても、今年の7月にはTOEICが民間試験からの離脱を決めていました。これはこれで改革停滞の序章だったわけです。

直接的には、L&R、S&Wの2種のテストを合体させて運用せよ、というセンター側と、それぞれ後で足し合わせて提出すれば問題ない、と考えていたTOEICサイドの認識のズレが原因だそうで、日本の大学入試のためだけに試験システムを曲げることはできない、と離脱を決めたようです。

行政側が「民間試験を使わせていただく」という姿勢ではなく、「お前らの試験を使ってやる」という姿勢だったのが問題ですね。全都道府県に試験会場を設けることなど、いろいろな注文を悪気もなく行っていました。

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TOEICの自主的な離脱はともかく、今回の延期は、行政の意見を取り入れ来年に向けていろいろ準備していた残りの民間団体6団体を踏みにじる行為であることは間違いなく、超絶に迷惑な判断ですね。

しかし、注目すべきポイントはもうひとつあり、ここまで議論がもつれた土台には「地域格差、経済格差による教育の不平等を生じさせてはならない」という謎な公平性を求める意見があったと思います。

たとえば採用される(予定だった)英語民間試験は、安いもので数千円、高いものは二万五千円、2回受験して提出するものですから、少なくとも1万円、高いものは5万円かかる。

しかし、これを経済格差による不公平と捉えるのは浅はかです。「高額なテストは点数が取りやすく、低額なものは点数が出にくい」などの傾向があるのなら理解できますが、出費が嫌なら1万円の試験を受ければ良いだけの話で、たとえばものを食べに行く時や車を買う際の選択肢と同じです。そもそも受験料を払いたくないなら「大学に進学しない」という選択肢もある。私立大学の受験料は3万~4万、私立大学を複数受ければ、軽く10万から20万は飛んでいく。

その出費をするかしないか選択するのは各家庭であって、金持ちだろうが貧乏人だろうがこういう資本主義社会で暮らす以上は、基本ルールとして、それは不公平でもなんでもない、と押さえておかねばならない。

萩生田がまぬけなのは、それを「貧乏人は安い方買えよ」と発言したことで、そんなこと君に指示される筋合いはこれっぽっちもないわけなのであった。

やっぱもともと脳の中にあることが口から出ちゃうのだわな。

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さて、教育格差という言葉がありますが、誰もが大学進学を目指す(あるいは目指すべき)というのは、昭和の高度経済成長の時代が招いた弊害だと思います。
終身雇用から逆算するとよい会社に就職するほうが有利で、そのためによい大学に進学するほうが有利。
そういう単純明快なロジックは、すでに何十年も前に破綻している。

その亡霊を追いかけるがゆえに、テスト偏差値を上げ、ひとつでも上位の大学へ行くことが幸せにつながる、という固定観念から抜けだせない。

その幻想を断つべく新時代の大学入試改革は進行している。

教育における地域格差、経済格差というのは否応なく存在し、経済的に裕福な家庭の子が高学歴になりやすいのは、安くて美味しくて立地とサービスのいい店が繁盛しやすいのとおなじぐらい当然のことだ。

流行っている店、売れているタレントをみて「不公平だ」と不満を垂れるのは、大人の姿勢ではない。

今は幸いにも、昔と比べて低価格or無料の学習機会がめちゃくちゃ増加している。youtubeには巷のしょうもない塾や予備校よりもハイレベルな授業動画が無料で大量にある。さらに、学習法についてのアドバイスもweb上に無数にある。高いお金をはらって塾や予備校にいかなくても、主体的になり、情報力、行動力を駆使すれば、どれほど貧しくても高度な基礎教育を受け取ることが出来る。

今回の英語民間試験の件で、貧しい人に不公平だ、と騒いでいる層は一昔前の人種である。

離島だろうが、ド田舎だろうが、どれほど貧乏だろうが、netにアクセスすれば、都心に住む人と同じ情報が無料で手に入るのが今の世の中だ。

時代に逆行するようないちゃもんで、新時代の教育の幕が開くのを遅らせないでほしいと願う。

※追記コメント

うむ。この記事にも、たとえば共通テストのプレテストの国語と数学の記述式は、明確な採点基準があいまいで、自己採点もできず、不安だ、みたいなことが書かれてますが、
世の中ってそういうもんだろ
ってことが改革のメッセージなわけで、そこに完全性や平等を求めるのは筋違いだと思いますね。
作文を採点する行為自体が、もともと多分に不公平をはらんでいる。
だから曖昧さやめんどくささを排除したのがセンター試験。
それを反省し、
世の中の曖昧で、めんどくさく、答えの出しにくいものと向かい合おうぜ
というメッセージが記述式導入なわけですけど、それが基本的にわかってないから、「しっかりした公平な採点基準を!」とさわぐことになる。

もうすこし専門的に言うならば、今回のプレテストの問題をみる限り、数学の記述式導入はどっちでもいいと思える。
自由な発想を展開するものではなく、答えを普通に得るまでの過程を書かせるものになっていた。
通常センターにむけて数学を学ぶものは、そのトレーニングの過程で記述できるようになっているので、わざわざ記述式にしたところで、負荷も増えないし、もとと同じ。
国語の記述式に関しては、採点官がだれであれ、どんな基準で採点されるにしても、導入に意味はあると強く感じる。
数学のマーク選択肢は10通り以上あり、それが複数組み合わせてマークするので、そもそも当てずっぽうには得点できない。
国語は5通りの選択肢なので、適当に正解してしまうことが起こりうる。それが提出されたものから「当たりを探す」「ハズレを除外する」という、創造性のないムーブを生んでいた。
記述式は少なくとも、自分の中からなにか言葉を出す必要があり、受験生にはそれ自体が大きな壁である。

記述式導入って言っても、結局センターとやってること一緒やん、という批判はあまり飲めないね。
英語の民間試験導入延期とあわせて、共通テストへの記述導入の是非も取り沙汰されてるので、わたしの意見。

[2019.11.07 facebookから]

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