【全文公開】人間定休日宣言ー24時間営業年中無休な私たちの働き方改革ー
ふと気付いた。
「北祐介に定休日はあるのか」と。
仕事が忙し過ぎて休みがないという意味ではない。人間としての定休日があるかという問だ。
せっかくの休日を得たとしても、見たい映画やアニメがあって、次の仕事の準備もあって、勉強したいこともあって、それに未来が気になって仕方がない。
本当の意味で何もしなかった日であっても、「今日は何もできなかった」と後悔はするが「しっかり休めた」という喜びはない。
人生100年時代と言われながらも1日に受け取る情報量は平安時代の一生分と実に私たちは余白なき日々を送り続けている。
終わらない自己投資、ここぞとばかりの豪遊、漠然とした焦燥感。
多忙すぎる日本社会に過ごす社会人に送りたい「余白なき世界でのサバイバルブック」のつもりでこのnoteを書いてみた....
と、言いたいところだったけれど、あまりにも分量が多過ぎてnoteだと途中で飽きてしまうと考えたため、今回は電子書籍にてこれをお送りすることにした。
定休日なき社会と人生に無理矢理定休日を作り出し、自分のリズムで生きることを思い出すための本です。
前文
苦しみがなく、悩みの不安のないこころ安らかに過ごせる場所。人はそれを天国と呼ぶ。
この世界に天国はあるか。
天国を上述のように定義するのであれば天国なんてものいくらでもあるだろう。
しかし、多くの人は休日というシステムがあったとしてもそれを上手く利用できずに消費してしまうだろう。
肩書きや立場に縛られ続けることで、休日でさえもろくに休めずに、ただ毎日の疲労が蓄積されてしまう。
この問題は個の名前と専門性を売り出しすインフルエンサーおよびその志望者だけの話ではない。
これはこの社会が「24時間営業年中無休社会」であるからで、この負のループを抜け出すために「暦社会」的な生き方をしていく必要がある。
その方法の一つとして、私たち社会人一人一人に「定休日」を設けるのが良いのではないかと思う。
仕込みや買い出しや作業に追われる自営業者のそれもなく、少ない休みの日に遊びを全力で楽しむ会社員のそれでもない。
肩書きも夢も目標も日々のタスクも何もかも忘れ、世の情勢を追わず、遊びにエネルギーを使うこともない純粋な心身への定休日をだ。
「会社員なのに、そんなことができるわけがない!」と考えている人も多いだろう。
もちろん、そういう人に目を瞑って適当なことを言うつもりはないので、後半の方に具体的にどのように定休日をつくっていくのかについても記述しているのでお楽しみを。
1.脱「24時間戦えますか?」が必要な理由
バブル期の「24時間戦えますか?」が示すように、戦後の日本経済は長時間労働を前提とした社会設計や働き方が蔓延している。
今は以前に比べて、休むことの重要性やキャリアアップなどの観点からその体制が適切に批判されているが、同時にこれらがより人々の余白を奪っているようにも思える。
大抵の人は働くことへのストレスを癒すためにその休みを利用しており、キャリアアップや自己投資は二の次になっている。逆を言えば、キャリアアップや自己投資が二の次のポジションを押さえてしまっているがために、本来の「休む」をどこかに放り出している。
過去の歴史を考えると、活動時間の長期化や総力化は多くの悲劇を生んでしまっている。
例えば、第一次世界大戦や第二次世界大戦、ベトナム戦争あたりは記憶に新しい。
本来、戦争は国家が武力を行使することで利を得るために行われるものであるのに、これらの戦争は勝った方も負けた方もボロボロになってしまっている。
ナポレオン戦争のように、その発想で周りよりも優位に立ち回ることができた時代はあるものの、それが当たり前のように浸透してくると、頑張っても頑張っても誰も得しない悲劇にあうのがほとんどだろう。
第二次世界大戦の後、世界を支配したのはアメリカとソ連だ。
アメリカは戦争が終わり始める頃に参加し、一度も本土を攻め込まれずに戦争を終えている。(日本との戦いでまあまあなトラウマを背負っているけど)
ソ連は初めにドイツ、後に連合国側として戦争に参加しており、常に有利な側に立って戦争をし続けた。(大粛清があったり、独ソ戦で尋常な被害を受けたものの、ヨーロッパ本土と比較すれば微々たるものだろう。)
状況を見つつ兵力を増強したり力を温存していた国が戦いに勝つのだ。
今の私たちはどうだろう。
家庭と職場で日々のタスクに追われ、束の間の休日も「何かやらなきゃ」と落ち着けないままに過ごしてはいないだろうか。
それが当たり前になってしまっているのであれば、本当に楽しみたいとき楽しむことができず、力を発揮すべきときに力を発揮できなくなってしまうだろう。
2.それでも24時間働き続けてしまうワケ
働き過ぎは良くない。ずっと働き続けているといつか体を壊してしまう。そんなことはわかっているのに、なぜ私たちは働きすぎの状態になってしまうのだろうか。
それは私たちの仕事の多くが24時間働けてしまう仕事であるからだ。
例えば、工場は一応定時はあるものの、季節にかかわらずいつでも動かし続けることができるし、需要と供給やメンテナンスや人件費を考えなければ24時間動かし続けることもできるだろう。
そして、サービス業に関しては多様な時間帯で働く人たちがいるために都市では24時間営業ができてしまうし、逆にいつでもサポートを求められる。働けば働くだけより多くのお金を稼ぐことができてしまう。
ITに関しては特にそれが顕著で、フリーランスであれば「好きな時間、好きな場所で働くことができる」の裏返しで「どんな時間であってもどんな場所であっても働かされる」状況が作り出されてしまう。
24時間働くことができないのは農業くらいだろう…と言いたいところだが、農業も今や自分で販路を切り開いたり、ブランドを作ったりする必要がある手前、こちらも24時間働き続けることは理論上不可能ではない。
このように、今はどの業種・どの業界であっても24時間働くことができてしまうために、私たちの休日すらも「働く」の中に組み込まれてしまう可能性がある。
これが極まると本来休息であるはずの睡眠にも質と効率が求められるようになり、まるで眠りのひとときであっても働くに組み込まれてしまう恐れもある。もしかしたらこれを読んでいる人の中にも「3時間寝たから大丈夫」が口癖になっている人がいるかもしれない。睡眠はそんなに便利にできていない。
こう考えると、逆に24時間働いていない人の方が少ないかもしれない。
どんなときにも仕事や家庭での役割がチラついてしまうのであれば、それはもう24時間働いているといっても過言ではない。
3.24時間働かないための「暦」の使い方
では、どうすれば24時間働き続けないようにできるのか。
それは仕事や暮らしの中に暦を導入し、季節や時期に合わせた行動を創造することだ。
これら二つを使いこなすことで、自分がどのタイミングで定休日を設けた方がいいのかが見えやすくなるし、どのタイミングで勝負を仕掛けるべきかが見えてくるので、是非とも活用して欲しい。
その前に、どうして私たちが「暦」を失ってしまったのかについて知る必要があるだろう。
前の章で書いた働き方は16〜18世紀に各国で起こった産業革命の頃から続いている。
工業化社会が進むと、資本家はより資産を得るために労働者を増やし、長時間労働を強いてきた。
ただ、その働き方が機械や人々の故障を生み、それが損失になるために、「作業の効率化のための」働き方改革が現代に至るまで進められてきた。
たしかにはるか昔に比べれば、私たちの働き方はマシになっているかもしれない。
しかしそれは「より良い成果を生み出すための働き方改革」であって、必ずしも私たちの幸せに直結する働き方改革ではない。
障害のある人や子育て世代でも働きやすくするための働き方改革はあるが、ダイレクトに私たちの暮らしを豊かにするための働き方改革は未だかつて存在しないのだ。
残念ながら企業や組織が働き方改革を導入する場合、「その働き方改革を導入することでどのような成果が生まれるか」が前提となるために、真の意味での私たちの幸せに直結する働き方改革は私たち自身で導入する他ない。
そこで、産業革命以前に当たり前だった「暦」と「定休日(あるいは安息日)」を自らの手でインストールすることをお勧めしたい。
暦については二種類あって、春夏秋冬のスパンと満月・新月のスパンを例に出してみる。
「春は花〜」といった一般的な季節感でもいいし、「春は花粉が辛いから調子悪い」みたいな個人的な季節感でも良い。
私の場合は、
1月〜5月:お祭りラッシュ
6月~9月:活動を積極的に
10月〜11月:心の平穏&季節を満喫
12月:一年の振り返り
になっている。
なんとなく自分にとって相性が良い季節と、手を抜いてもいい季節を把握しておくだけでも良い結果を産んでくれるかもしれない。
満月・新月に関しては短期的な振り返りとして。
満月と新月は2週間でちょうど入れ替わる。
そして、満月と新月の近くは何かが起こりやすいと昔から言われている。
満月と新月の間をそれぞれの日の前日に振り返ることで、「次の2週間はどんな感じで過ごそう!」とか「今日までの2週間はこういうことが大事な日だったんだ!」と気づいて最終日に理想の過ごし方ができるかもしれない。
満月からの2週間は満月の日の状態や願いが2週間続くだろうし、新月からの2週間は新月の日の状態や願いが続くだろう。
もし、何か違うなと感じた時に新月と満月がどうだったのかを振り返ってみると面白いかもしれない。
ーコラムー「イベント」したから季節を感じたとか言ってんじゃないよ!!
春夏秋冬は多くの人にとって当たり前に導入していると思われるが、衣服以外は大抵イベントで済ませているのではないかと考えられる。
なぜなら、大抵のイベントは季節に無関係なものが多く、イベントのために季節を利用しているに過ぎないのだ。
お花見は酒を飲みつまみを食べてどんちゃん騒ぎをしているだけに過ぎないし、クリスマスに関してはただ子供にプレゼントを買って豪華な食事をするだけだ。別に桜でなくてもいいし、12月25日にやらなくてもいい。
バレンタインデーなんかは最悪で、聖バレンタインが誰かも知らなければ、愛を伝えるためにチョコではない義理チョコの方が優勢になっているではないか。
唯一正月だけが暦を意識しているように思えるが、今年の抱負がその年の12月までおぼえられていることはない。お盆に関してはコロナ禍が始まってその存在が危うくなりつつある。
先ほど「衣服以外は」と述べたが、衣服についても季節に衣服を合わせるのではなく、冷房を効かせることで衣服に季節を合わせようとしている節はあるので、衣服すらも暦にあっていない気がしている。
4.人間定休日を作るための心構え
毎日毎年全く同じな季節感の乏しい今の働き方に暦を導入できれば、いよいよ人間定休日について考えることができる。
先ほど書いたように、私たちは忘れているだけで相性の良い季節とそうでない季節を持っている。
わかりやすくするために「相性の良い季節」と表記したが、これはあくまで「相性が良い=活動的になりやすい」と解釈したものにすぎないので、必ずしも相性が良いからと言って定休日=不要論となりえない。
活動的になりやすいからこそ気をつけなければいけないこともあるし、活動的でないからこそ立ち止まって内省して次への布石を作り出すこともできる。表層部分に差はあれど、本質的にはどの時期にあっても何かしらの活動をしていることになる。
人間定休日はそれらの活動を一切ストップすることに意味がある。
「人間は社会的動物である」の言葉が示すように、私たちは社会に属することで個人として存在できる。それを逆手にとれば、一時的に社会の接続を断つことで個人としての定休日を設けることができるのだ。
言い換えると、それは「何でもない、自分ですらない自分」になる1日。それが人間定休日であり、人間定休日を実行していく上での大前提となる。
母でもなければ父でもない、社会人でもなければ学生でもない。男でもなければ女でもない。自分がその属性に属していると思える行為を一切やめれば「何者でもない、自分ですらない自分」に近づけるだろう。
日常行為をやめるだけで完全に自分から離れることができるかとは言い切れないが、仕事と個人が結びつき過ぎている現在ではかなりの効果を発揮してくれる。
それは、戦後日本の歪な採用体制や働き方、核家族化が産んだ慢性的な人手不足の賜物。これによって、一人一人その役割を果たし続けなければ仕事や家庭がうまく回らなくなってしまっている。
専業主婦の存在を前提とした宅配や家庭環境、上の人の決定を待たなければ進まない仕事、周囲の同意を得られないために止まり続ける企画などがそれを示している。
その状況が、自分がいることが当たり前と思う社会を作り、自分がいないと回らない状態を導いている。
が、それらの多くは洗脳によって作り出されている。誰かによるものではなく「私がここを離れると大変だ」という自分自身の洗脳によって。
機械が故障すればその機械の修理が終わるまで動けないのが普通だ。
「今休まれたら困る」と言われたところで、壊れて動けない機械には届かない。機械の故障は許されるのになぜ人の故障やメンテナンスがされないのか。
いっそ、社会の歯車として働いている自覚があるなら、歯車のように故障を起こしてやればいいではないか。
それでもやらなきゃ!と思っている人は、単純にやる人が自分しかいないと思い込んでいるだけに過ぎない。特に家事なんかは他人任せにしやすいので、他人任せにしていけばいいではないか。子供でも旦那でも、動かなければいけないときに人は動けるようになる。
逆に自分でなんとかしようとばかりしていれば、周囲の人間の成長の機会を奪うことになる。
「私がやらなきゃ」が続けば「なんで私は一生懸命やっているのに」に変わり、いずれ家庭内および職場内での相互不信が始まるだろう。
だったら自分が我慢すればいいじゃない!と思われるかもしれないが、結局あなたは社会の歯車に過ぎないので、オーバーワークが慢性化すると壊れてしまう。数人分の仕事ができようが、動けなくなってしまった歯車は一人前と数えられない。
自動車に乗っている人であればわかるが、タイヤはある一定距離を走った場合にローテーションを推奨される。同じポジションで走り続けると、タイヤの溝にブレができてしまってタイヤが長持ちしなくなってしまうのだ。
家族間でも同様に、定期的なローテーションやパーツ休めが必要だろう。
外注会議のための家族タイムを設けることで、今自分がやっているタスクと外注できそうなタスクを整理してみると良いだろう。子供=相談相手くらいに思うのも良い。
役割を固定化させない。フレキシブルにやっていこう。
5.人間定休日をどのように過ごすか
最後は人間定休日をどのように作り、どのように過ごしていくかについて書いていこう。
人間定休日の作り方は簡単で、休日に人間定休日の過ごし方をするだけだ。
そもそも休日が取れない人については「37.5℃の熱がある!」とか「喉が痛い」とか「体から異様に汗が出る」と言えば大抵事実確認なしに「来ないでください」と言われるだろう。ワクチンを打つのもいいかもしれない。もれなく、「副反応がキツくて」で10日くらいは休めるだろう。緊急事態宣言とか自粛とかで私たちの行動をいつも縛っているのだから、たまに利用してやってもいいではないかと思う。
仮に本当にコロナにかかったとしても、今であれば「変異株」で通ってしまう。病院は抗原検査以外に大した検査しないしね。
収入的な問題で休めない人は緊急小口資金や総合支援金などの諸制度を活用しよう。
正直、休みなんて自分の意思で作り出せるのだから、これ以上の記述は無駄だと思うのでやめることにする。to be, or not to be.
ここからは人間定休日の過ごし方になる。
人間定休日の大前提として、「自分のため」とか「誰かのため」とかいう発想を全て捨てることから始まる。
大抵、自分へのご褒美は一時的に心を満たしたとしても体に不調起こす場合が多く、そもそもそこに辿り着くまでの労力が必要になるので、ご褒美と言いつつ鞭で打たれているM男と変わりない。他人のためについては論外。病気なので人間定休日を設けて徹底的に治療していきましょう。
そして、やりたいことをやらない。
普段からやりたいことをできていない人にとって、これは大変難しいと思うので、そんな人にはゆる断食をお勧めする。ファスティングでも良い。
ゆる断食は「液体と液体になりそうなもの」以外を一切口に入れない断食だ。例えば、牛乳や甘酒のような液体にも固体にもなりそうなもの、バナナはバナナジュースとして取り入れ、フルーツはだいたいジュースになるから食べるなど。もちろんアルコールはNGだ。
だいたい、大抵の人はお腹が空くと何もできなくなるので簡単にやりたいことができなくなる。
仕事も肩書きもやりたいことも目標も全部捨てた後に残る「暇だからやるかな」を大切に。ただし、ゲームや読書や映画鑑賞を除く。それらは「暇だからやること」に見せかけた「ずっとやりたかったこと」なのでレギュレーションから外れてしまうから。
スキルアップのための行動をしない。無理な情報収集もしない。現代の日本人が1 日で受け取る情報量は江戸時代の1年分であり、平安時代においては一生分なので、受け取った情報を頭の中で整理したり、情報を受け付けないことに注力しよう。ネットサーフィンやSNSに関しては論外なので、いっそスマホやタブレットやパソコンの電源を切って金庫に入れておくくらいやった方が良いだろう。特に撮った写真をSNSにあげようとかは論外の極みなので絶対にやらないようにしよう。当然、受動的に情報を受け取れ続けるテレビやラジオや新聞もNG。
あくまで、今いる空間と目の前の時間を満喫しよう。
旅行先だったら真にいろいろなことから解放される!と思う人に関しては、日常泊にしておこう。当然、移動日は定休日に含まれないので、3泊4日以上で観光もお土産購入もせず乗り物にも乗らないで、ただダラダラ部屋で過ごしたり、風呂に浸かったり、近所を散歩するだけに留めておくのが良い。
フリーランスなら週一で、会社員は月一くらいでこういう日をとると良いだろう。
まとめー「自分の人生を生きる」ということー
人生100年時代と言っている割に明らかに100年働くことを想定できていない働き方が蔓延し続ける今、自己防衛やキャリアアップのためにあえて休む選択肢を取るのは実に有効であると考えられる。
ゲゲゲの鬼太郎の作者・水木しげるは90歳を過ぎても漫画を描き続けた。手塚治虫・石ノ森章太郎から徹夜自慢をされた際に「幸せなんかも睡眠力から湧いてくる。睡眠力こそが全ての源です!」と語った。(漫画エッセイ中)
自分の好きなことのために全力で頑張るのも素敵かもしれない。
しかし、それによって寿命を縮めたり倒れたりするのは本当に自分の人生を自分で生きていることになるのだろうか。
きっと、若いときであっても、中年になったとしても、どこか周りにいる「自分よりも輝いている人」に気を取られてしまって、本来の自分のペースを乱されているのではないか。
人間定休日は、そんな日々の焦りやタスクに追われている人生の中で自分の人生を取り戻す上での絶好の機会かもしれない。
将来の夢のために計画を立てるのも、キャリアアップのために時間を使うのも大切なのは間違いない。ただ、それらを実現したとしても、自分のリズムで生きられていなければどこかで息切れを起こしてしまうのではないだろうか。
巷ではFIRE(ファイア:Financial Independence, Retire Early=お金をたくさん持った上でさっさと浮世から離れる)なんて考えがあって、そのために今を犠牲にしようとするひとがいるが、無理な働き方を続けているのなら、FIREを達成するそれまでに「好きなこと」がわからなくなってしまっているのではないかとも思う。また、世の中もどうなるかわからないので、今のキャリアプランを5年〜10年先に持っていくのはいかがなものだろうかと常に思う。
人生塞翁が馬。何があるかわからないからこそ、何かがあったときに柔軟に生き方を変えられるほうが良いだろう。
最後の最後まで、自分の信じたものに縋り続ける以外の選択肢がない未来なってまっぴらだから。
おわりにー執筆後期ー
noteに書くにはあまりにも長すぎるし、電子書籍にするには短すぎるので両方用意することにした。
この本を書こうとしたキッカケは自身の働き方について考えながら奈良市内に遊びにきていたときに起こった出来事から。
お気に入りのラーメン屋さんにいこうとしたら定休日で一瞬腹を立ててしまったのだが、ふと立ち止まって「なぜ飲食店は人が営業してくれているのに、私は彼らが休んでいることに対して不機嫌になったのだろう。」と考えてみた。
そこから何かがつながるように走り出して、メモを書き、文章にし、世に出すに至った。
思えば、ラーメン屋の定休日に腹を立てた裏返しに自分自身や世の中に24時間営業年中無休を求めていたのではないかと。また、逆を言えば24時間営業で生きることを求められているのではないかと考えた。
私はこの文章を書くことで、自分自身の働き方を、生き方を見つめ直すことができた。時折病気が発動するようにツラツラと何かを語りたくなるエネルギーにのせて。
これを読んだことで、少しでも自分働き方改革が進んでくれることを祈っている。
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