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Ind-ZIN(インドジン)ができるまで〜中編〜

一度「Ind-ZIN(インドジン)ができるまで」を完結させようと思ったきっかけは、つい先日のある人が言ったこんな言葉がきっかけだった。

「できないことができるようになった時、『生きてる』と強く実感する」

自分は強く共感したし、その人のことを尊敬した。ただなんとなく自分の中でその言葉の解像度を上げて咀嚼してみると、ほんの少しだけニュアンスが変わってくることに気付いた。

「得体の知れないもの」

これに関しては至極主観の世界の話と捉えて欲しい。一般的に解明されているか、言語化されているかの話ではない。自分の中でまだ咀嚼しきれていないもの、まだ解釈が追いついていないもの。それに出会うことが「生きている」と強く実感する瞬間である。自分はそういう人間だということ。

話を時系列に戻せば、大学生活はその「得体の知れないもの」と向き合い続けた時間だった。つまり強烈に「生きている」と実感した時間。初めて出会う言語、人種、価値観、文化、音楽。これまでの情報弱者の暮らしの中、例えば影響を受け続けてきた姉から教えてもらってきたそれらを軽く覆してしまう未知の洪水に打たれ続けた日々。殊に自分は文学と音楽にのめり込んでいくようになった。

文学と音楽、その二つに共通しているものは「歴史」だと思う。思えば幼い頃から自分は「歴史」というものが好きだった。高校の時分には世界史のテストは90点以下を取ったことがなかった。様々な生き物や人たちが重ねてきたもの。レコードから聴こえるその音や、書籍に書き綴られている生々しい当時の情勢、想い、空気感。もう感じることはできないし、変えることもできない刹那の有様。それらに強烈な興奮を覚えた。今ここにないものだから。大学に残る学生運動の名残りもそう。

誰かの情熱の蓄積だった訳だ。その時分の青春であり、怠惰であり、幻想であり、理想郷であり、紛れもない現実だった訳だ。対してその当時の自分が暮らしていた世界は、「正義」「偽善」「希望」「未来」、そしてそれと同時に横行し始めたこれまた「現実」と「合理性」の世界だった。重ねて言っておくがこれは至極主観の話だ。

自分は幼稚な人間ではなかった。「現実」というパワーワードには屈さなかったし、妙な反発心も持たなかったと思う。ただ少しだけ例の「合理性」については違和感を持ち続けていた。というのも「概念」というものが既に充足しきってしまっていたと思ったから。当時強烈に関心を引かれていたあの戊辰戦争や黒人奴隷たちのブルース、ウッドストックに安保闘争やジョンとオノ・ヨーコの出会い、中津川ジャンボリーや紅テントの状況劇場、連合赤軍、イカすバンド天国。当然前頭葉が彼らに感化されることはなかったけど、少なくともまだ当時残されていた「得体の知れないもの」たちのと対等する気概や未成熟さが、今の世界にはないのではないかと感じたから。全てが言語化され、名前が授けられ、カテゴライズされ、挙句には啓発本やSNSに横行してしまっていると感じていたから。「現実」は少し考えればわかった。けど「合理性」に則ったら、この身体と魂がただの記号みたいなものになってしまうと感じていた。

そんな気持ちを報いてくれたのが「自然主義文学」と「エモ・オルタナ」だった。また恥ずかしい、けれどやめない。なんの生産性もない「私」の気持ちの追求や、開放弦や不協和音に塗れた初めて耳にする音、歌声、親父のカーステや教員たちの口からは発せられなかった言葉たち。掘ること、創造すること。ものすごく憧れたし、焦がれたし、縋っていたと思う。何が起こるかわからない、予想できない、概念が確立する前のまさしく夜明け前の世界。

そんな大学生活の中で大切なことを教えてくれた軽音楽部の先輩がいた。

「王道で勝つのが一番かっこいい」

大好きな尊敬する先輩の言葉だった。奇を衒って、個性を主張して、無知で幼稚な喚き声をあげても何も変わらない。きっとそんなことを言っているのだと解釈した。自分は何かを「変えたい」とは思っていなかったかもしれないけれど、「かっこわるい」のは嫌だった。だからめちゃくちゃギターを練習したし、ステージセンターで歌を歌う訓練をして、数年前まで抱えていた「こんなもんじゃない感」と少しだけ素直に向き合えるようになった。その先輩は卒業後地元岡山の市役所へ就職した。いわゆる「エモ・オルタナ」でなく、タイマーズを教えてくれた人だった。

そんな先輩の言葉を胸に、自分は高校国語の教員免許を取得して大学を卒業した。正直胸を張れるような学生生活ではなかったけれど、少なくとも後悔が残るものではなかった。結局教員の道には進まず、出版業界へ就職。小さな地元のローカルフリーペーパー会社。

6年間勤めたその会社で学んだのは、紛れもない「現実」だった。

そんなことは当たり前だとわかっていたし、適応する方法も心得ていた。でも最後の最後、どうしても違和感を尊重する他なかった。当時の自分は今よりよっぽど青臭い頭をしていただろうし、経験や心構えも足りなかったとは思う。けれど今後悔しているかというとそれはない。理由は「現実」を受け入れるにはまだ自分の人生に時間がありすぎたから。どうやら健康に行けば自分にはあと60年近くの時間があるらしかった。単純に、すごくすごく素直に、長いなと感じた。仮にここで言う「現実」に関しても、それは至極主観に依るものだと言うことだとするならば、この世界線の「合理性」に則って生きていくことに強烈な危機感を感じた。

次が最後になります。もう少しだけ、読んでくれたら嬉しいです。

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