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内面や性格を考えることはいいことなのか?

これは今に始まったことではないのですが、
いつの頃からか、自分の内面というか、性格、考え方を
自分で振り返る癖がついています。

教育の過程で身についたものなのか、
もともとのものなのかはわかりません。

心理学的、あるいは哲学的に自分のことを考える。

非常にいいことのように思いますが、
どうも「やりすぎは体に毒よ」的な側面がありませんか。

過剰に周りから責められ続けた弊害かもしれません。

「行動の基本になっている考えは適正か」
「間違った行動は間違った思考から」

こういう風に考えて自己分析的な側面からいろいろ考えるのは
悪いことではないでしょう。

あさま山荘事件であるような
思考が行動の全基本になるというほど極端でなくても、
ほんとに行動は思考によってきめられているのかというと、
違うのではないでしょうか。

心理カウンセラーのみきいちたろう先生のブログ

を前から読んでいて、ひとつ衝撃な一言がありまして
「言葉には大した意味は無い」

そのひとのとった行動に意味はあり、
言葉はその外面にしかすぎないと。
放った言葉をすべてその人が覚えているわけでもないのだから、
そこに意味を持たせて悩むのも無意味である

と。(解釈がまちがっていたらスミマセン)

いままでの経過から、言葉は思考の発露であるのだから、
大きな意味を持っているという、フロイト的解釈そのものが
相当間違っているのではないか?

行動を変えるには思考を変える必要がある、ではなく、
単純に行動を変えることも可能ではないかと。

自分の生まれたころの若者世代、全共闘世代の残した本や、
そのあとの人生の軌跡を考えてみた時に、
はっきり言って、今の目線からは不毛な論争、思考にしかうつりません。

当時のフリージャズがもはや忘れ去られた存在、
ミッシングリンクになっているのと同じです。

今の人の発達障害に関する論争はその意味でかなりさばけていて、
「どのように行動すれば適応できるのか」
が重要な視点になっていますね。

今までの過去の人々の経験から
「問題は勉強したり考えると増える」
「行動でしか問題は解決しない」
「解決しない問題も存在する」
という認識がみな共通になってきているように思うのです。

ネットが登場するまではこういう視点はあまりありませんでした。
ネット登場以前の本などから得られる知識は、いわば汎用部品で、
「誰にでも当てはまるけど、どの人にもしっくりこない」
感じがありました。

以前の団塊の世代の影響なのか、
本とかでも過剰に内省的なものが目につき、
具体的な行動を指し示せていないものが多かった気がします。

自分も年取ってきてから、あまり深く考えるのをやめてしまいました。
延々と考えていてもあまりいいことないです。


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