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GWの想い事

サカナクションの「さよならはエモーション」を聴いていたら、ふと、ある人と別れた時の事を思い出している私がいた。

あの時の私が感じた想い、景色。

相手ばかりが、痛み少なく、私ばかりが痛い想いをしている。
そんな憎悪に駆られていた。
お腹の辺りに何か、凄まじく蠢いている気持ち悪さがあった。

蠢いている何かのエネルギーを借りてでも、買ってもらった服も、何もかも捨ててしまいたかった。

しかし、それすら出来ないほど、私は弱り果てた。
布団にもぐり、一日中、泣いて過ごすしか出来なくなった。

自分の今、出せる最大の生きる力が、泣く事しか出来ない。

多分、これからどんなに歳を重ねても、若い頃に度々、経験したハードな別れと比べても、あの時に勝る、しんどい別れは、もう起こりそうにない感じがする。

あの時ばかりは、本当に打ちのめされた。
異常だった。

私は、自分だけが、相手に甘えていてバランスが崩れたのかと思っていた。
よく見たら、私は物質的に、相手に甘えている要素が強く、相手は、私に精神的に、どっぷり甘えている。
そんな絵が浮かび上がった。
それで、私のキャパがオーバーしたのだと気づいた。

私の心のスペースに空きがあって、自分がしんどくなった時には、そのスペースも利用するけれども、普段は空いている。

そこに、パートナーや家族、友人、なにがしか関わりの深い人物が、私という駆け込み寺に助けを求めてくる。

丁度その余白は今、使っていないから、大丈夫だよと受け入れる。

ただ、余白スペースは、あくまで余白。
広大に、無限に、生み出せなくは無いのかも知れないが、それは、自分が心の底からイエスを言えている時だと思う。
少しでも違和感があると、生み出す事は難しい。
自分の根っこが、拒否をする。

どんなに余白に受け入れた人物を愛していたとしても、自分のキャパを超えて忍耐を強いられるのは、自己愛を蔑ろにするものとなる。

他者の「もっと」に、自己は、応えられない。
「もっと」は、自分でしか満たす事はできないからだ。

人に「上げ膳据え膳」を頼む前に、最低限、自分で自分に「上げ膳据え膳」、ちゃんと済ませてきてねという事だ。

あなたの仕事を、私は出来ない。
私の仕事を、あなたは出来ない。

お互い、自分の仕事は、自分でしましょう。

それならば私達、きっと気持ちよく付き合えるわ。

そんな想いを徒然に書く、GW最終日の夜。

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