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みどりちゃん u1

『ウサギ』

 わたしは兄から合鍵を受け取っていたので、マンションへはそのまま入ることができた。兄の部屋は一階の一番奥である。最奥というやつだ。塞翁が馬、というのは、人生なにが起こるかわからないという古事成語であるが、たしかに、わたしが兄の部屋のチャイムを鳴らすと、知らない女の人が扉をあけて出てきた。目が合って固まる二人の間に、「てん、てん、てん」という効果音がどこからか流れた。

「あの、あおという人の妹の、みどりという者ですが」

「ああ、妹ちゃん。あおはね、さっき電話を受けて、びっくり飛び跳ねて、それからすぐ出て行ったの。抹茶屋、に行ったみたい」

「ああ、そうですか。ありがとうございます」

 ここから抹茶屋へは、走っていけなくない。わたしは彼女に礼をいって、マンションをでるとそのままの足で抹茶屋へと向かうのであった。

 わたしが去ったときよりも、この町はなんだかいっそうと騒がしくなっている感じがした。とりたてて何がどうというのではないけれど、風が騒がしいのだ。家の取り壊しをしていたり、男子高校生がわちゃわちゃじゃれあいながら歩いていたり、救急車が通ったり、野良猫が二匹ならんで走ったり、あとはおじさんが二人で喧嘩しているのも見た。そういうこまかなことだろうか。

 抹茶屋へたどり着くと、わたしはすぐに兄に会えた。彼は店の前に立っていた。

「おお、みどり、どうしたんだい」

「お兄ちゃんこそどうしたの、こんなところに立って」

「実はな」と兄は、わたしに雷のような情報を与えた。「おばばが運ばれたんだ。どういうことかというとね、田辺くんがね、さっき僕に電話してよこしたんだけれど、その事情というのが、おばばが倒れたということだったんだ。急いで来てみるとね、たしかにおばばは倒れているし、それどころか反応もなくってね。田辺くんが呼んでくれていた救急車を、おれたちは待つことになったんだが、その間になんということか、おばばの心臓が止まってしまったんだ。心臓マッサージはやったさ、もちろんね。それで五分経たないうちに、救急車が来て、彼女を運んで行って、一息ついたいま現在だね」

「そうだったんだ。実はね、さっきわたし救急車とすれ違ったのよ」

「それだったかもね。そうだ、みどり。みどりはたしか母さんのところへ帰ったのじゃなかったか。またここへ来たのか。まあいいよ、ゆっくりしな……虫の知らせだね、きっと」

 兄はバイクに跨って、わたしに後ろに座るよう指示した。わたしは兄のバイクに乗るのは初めてであった。恐る恐る座席をたしかめて、わたしは一気にとびのった。「強くおれをしめているんだよ。それが安全さ」と兄が云ったので、走行中、わたしは強く兄を抱きしめるのであった。

 兄の向かった先は、交差点にあるハンバーガー屋であった。それなりに人はいて、わたしたちふたりが並んで座れる場所は一か所しかなかった。わたしたちは、そこで早めの夕食を取ることにした。兄はいま現在、あまり時間がないらしく、こうやって少し話すのが精一杯らしかった。わたしは、兄からコーヒーの歴史という話を聞きながら、オレンジジュースを飲んだ。兄が飲んでいたのはコーラである。なぜコーヒーの歴史を兄が話すことになったのか、皆さん気になって先へ進めないくらいになっているところでしょう。久しぶりに兄妹が会って、そこにコーヒーはないのに、コーヒーの、しかも歴史の話である。これにどういう意味があるのだろう。なぜわざわざ時間がないという、この短い逢瀬の合間に、そんなことを話すことになったのか。その経緯は、……内緒です。

 それから店を出た。空が半分夕焼け、半分青い。

 駐車場への道ゆき、兄が云った。

「けれど、みどり。きょう、少し仕事があるが、それが終わったら迎えに行くよ。十時くらいには帰るから、それまでおれの部屋で待っていてくれないか。そしたら、おれが迎えに行って、それから二人で海を見にいこう。おれは実は、ここからバイクで走った先にある、港を見つけていたんだよ。海は好きだろ」

「好き。だけれど、海に行くのが目的?」

「どういうことだい」

「遠くに行きたいんでしょ」

「……そうだね。女の子の問題は大変だ」

 いま、兄の頭の中がぐるぐるっと回る音が聞こえた。わたしの、事件への一擲。よもや真実をつくような一突きに、兄はうろたえたようであった。けれど、これはわたしだったからそのうろたえの色に気づけたのであって、普通の知り合いだったら、兄がこれほどまでになく上手くあしらったと、褒めるくらいのところであろう。

「お兄ちゃん」とわたしは、首に巻いていたネックレスを外して、彼に渡した。「お母さんのネックレス」

「ずっと持っていてくれたんだね」

 と兄はそれを受け取って指からぶら下げてみた。

「それ、お兄ちゃんが持ってて」

「なぜだい」

「お守り。そのネックレスが、お兄ちゃんを守ってくれるから」

「そうだね」

 兄はとてもつらいような顔をしてそのネックレスを首にまわした。けれど、上手くつけられない様子であった。やっぱり、うろたえてるのであろう。「おれも、不器用になったな」と、馬鹿みたいに白々しい兄を無視して、わたしは彼の背後にまわり、ネックレスをつけてあげた。

つけ終わるとわたし用にしゃがんでいた兄は立ち上がって「行こう」と低く云い、わたしを掴んでバイクの上に乗せると、自分もバイクに乗りいざ出発した。バイクの運転は、まるで上手である。

 マンションへ着くころには、夕暮れがだいぶん空を占領していた。

 わたしを部屋へ残すと、兄は部屋で待っていた女の人と一緒に部屋を出る。そして、「誰か来ても、開けなくていいからな」と言い残し、行ってしまった。

 さて、どうしたものか。

 そういうことで、わたしは一人で待つことになった。誰かが掃除をしてくれているのか兄特有の部屋の散らかり方も見えず、それだから片付けという仕事もない、あるいは整頓なんかもしてみようと思いついたが、そういうものもあまりなかった。前の部屋からここへくるとき、あまり物を運ばなかったのである。本当に必要なものだけ、限って持ってきたという風であった。しかし、そのなかに、カレンダーは含まれていた。カレンダーや時計は、兄にとって大切なものであるらしい。そういう区切りや、文明品を好むのかもしれない。ちなみに云うと、わたしはあまり好まない。好まないというより、気にしないというのが適当かもしれない。ここ数日だって、きょうが何日であるか、何曜日であるかという、日にち感覚は完全に使われていなかった。しかし、兄はそうでないようである。カレンダーに、きちんと終わった日付をばつ印で潰して、今がどこであるか、どれだけの時間が過ぎたのか、分かりやすくしてあった。きょうは何日かというと、それも簡単にわかった。四月の二十九日である。

にゃー