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あの日見た『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を僕は少し知っている。 (2/19)

文字ラジオぉ〜。
でおなじみの〈天才〉こと〈のり子〉です。

ずいぶん以前からnoteを始めて、人の記事も段々と読むようになり、そのころから「できればコメントもしたいな」とは思ってました。
けれどnoteってコメントしづらいんです。

理由ははてな。
記事がその人の中で完成されているからではないかと思ってみたり。
読んでみても書く人の中で結論が決まっていることが多いの。形として完成されてて横から口のはさみ方がわからないってこと。
平和で有名なnoteですから、この平和をバスターする気分にはなれないのです。

一昔前の寂しい文学少女のブログはここまでにして。

最近、努めてコメント書くようにしていると言う話です。

ノートには小説とか、童話とかもあるので読んでいるのですが、やっぱりいい作品っていうのはあるものですね。
で、その好きな作品の「ここがよかった」「ここが好き」っていう部分をコメントすることにしています。それくらいならできるので。

これの何がいいかと言いますとですね。
「ここが好き」と褒める。これはのり子が気に入った部分を褒めるわけです。
褒められた方は、「ここがいいのか」と知るわけです。嫌でもそこを気にしちゃうでしょう。すると次書く作品もそれを入れる。その良さを増やそうとする。その良さを深めようとする。
でまたのり子がコメント「ここがとてもよかった」
するとまた発展する。
どう発展するかというと、のり子が好きな小説になってゆくわけです。

そうしてnote中のクリエイターをのり子好みの世界に取り込んでやろうという計画な訳であります。
みんながのり子の好きな小説を、どんどん生産してゆけば、それほど楽しい将来はないのであります。
コメントする者の特権ですね。

実はこういう考え方が仏教にもあってですね。

仏教的な善と悪というのがあります。
善は自分を含めて周囲の人も涅槃へ近づくような行為。
悪は自分だけでなく周囲の人も涅槃から遠ざけるような行為。

例えば「自分のことばかり考えないで、他人が過ごしやすくなればいいな」と考えながら生活する。
その人とその人の周辺はギスギスしない、与え合うことで成り立つ関係ができる。
そうなって初めて正しい生活になるわけです。
自分だけ一人で山にこもって生活を正してもしょうがないのです。(山にこもるのを良しとするかしないかで、仏教は大きく二つに分かれます)

あと浄土の思想も好きです。

「浄土」というのは中国語訳された仏教語をそのまま日本に移したもので、インドで使われてた言葉をそのまま日本語に訳してみますと、「仏国土」となります。
たしかそうだったはずです。

浄土、というと死後の世界のイメージがありますが、そうではありません。
仏国土は現実の世界です。
(浄土も実はそうでしょう。遠い西のかなたにある国。死後生まれ変わりとしてそこに生じると考えるのが浄土教。だから死後の世界のようなイメージがついています。死後の国という観念はちょっと日本的ですね)

仏国土は現実の世界。
のり子の理解では、仏教のある世界です。だから日本も一つの仏国土。
素晴らしい仏国土を作るというのが一つの目的みたいなところがありまして、その方法の一つが仏教の布教なわけです。

この二つを合わせると、こういう思想ができあがります。

仏教の精神に則って尊い人生を送ろうと志すものがその国に一人いるとします。
その人は徳や慈悲で人に働きかけ、周囲の人も自分の人生や行いを問い直す。
けれど国に一人しかいないと、影響の範囲はその一人の周辺にとどまります。

ですが、十人いれば、行いを正すものと、その影響を受け少しでも心地よく暮らせる人の数は増えます。
国の十分の一の人数が仏教的な考え方で生活すると、その影響はほとんど国民に網羅される。
集団免疫みたいな話です。

なので仏教を広めましょう。
そう言われてるわけです。そのシステムが現在、悪徳マルチ商法で使われています。

理系の勉強ってやればやるほど人類の進歩に驚愕しますが、文系の勉強ってやればやるほど人類の進歩のなさを感じますよね。

とにかくnoteという仏国土を輝かしいものにしようと、コメントしてみるわけです。

そして、ここら辺の仏教に関する理解はまだ曖昧なので「そんな考え方もあるんだー」程度に聞いてください。正しい知識じゃないかもしれないので。

これが仏教に学ぶ、「全noteクリエイターのり子化計画」です。

さてさて。話はガラッと変わりまして、

最近プロセカの話を度々していて、でも一度のちゃんと説明していないことに反省しているんです。
食事も喉を通りませんでした。

ゲームなんですよ。
「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク」という名前のゲーム。
僕はやっていないんです。
ゲームはパズドラしかしていません。

ですけど曲を聴いたり、キャラ同士の会話をYouTubeで見たりと、運営さんにとっては害悪のようなファンです。

『にっこり^^調査隊のテーマ』

そろそろゲームもインストールしようかな。
ゲームって人生で続いたことがないんですよ。

パズドラだけが例外で、なぜ続いているかというと、やることがないからです。
僕のやることがない、ではないですよ。
パズドラっていうゲームは、することがないんですよ。
やっても意味ないダンジョンが、絶対にクリアできないダンジョンしかなくて、何をしていいかわからない。毎日ログインして、記念などに出る〈誰でもクリアできる新ダンジョン〉だけやって(三秒で終わります)、魔法石を集めて、ガチャを引く。

本当にすることのないゲーム。
ほとんど広場か、駅前のベンチのような状態です。
明日で十周年です。ここ一週間は十周年記念ということで、いろんなイベントがもよされていましたので、現在は盛り上がっていますが、ちょっと前までひどいものでした。
そのひどいものが、僕にとって条件が良かったわけです。
意味なく続いたわけです。

さて、今日選びました曲は、ピンク色の髪の毛の鳳えむ氏のみに注目して毎日見ているのですが、いやはや非常にかわいい。
メンマに似てるかもしれません。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の。

今日書き始めて気づきましたが、大して深く理解してるわけじゃないですね。プロセカ。だいたい、僕の中で書いていい基準みたいなのがあって、その基準を越えるまで理解して、ずいぶん時間が経って、自分なりの構造が出来上がったら書く。
ですがプロセカに関しては毫も知らない。まあ、文字ラジオなのでオッケーしますが、普通の記事なら永年下書き保存行きですね。

『あの花』の話題に移りましょうか。

昨晩見終わりまして、これで2回目です。

アニメ史上一番泣けるアニメなんじゃないかと思っているのですが、1回目に号泣したせいで、2回目である今回、第一話の最初のシーンから最後まで涙が土手っぷちのところまで来ていて、堪えるのに必死でした。
で、最後泣いてしまいました。
これは本当に泣きました。

僕のような性格の男が「泣く物語」で「泣く」なんてことは滅多にありません。

泣く作品=程度の低い作品

だと思ってますから。

泣かずに感動する作品が高級で、「泣ける」なんて評された作品は低級だと思ってました。
なぜなら、泣く物語なんて簡単に作れるからです。
大切な人が死ねばいい、病気になって、時間は限られていて、純粋な愛が奇跡を起こせばいい、バラバラだったみんなが力を合わせればいい、一緒に困難を乗り越えればいい。

高級な感動は違います。

文学は複雑さが中軸です。

科学は物事を単純化します。
しかし、「生きる意味のないところに意味を与えた」キリスト教。「生きるのが苦痛なのに生きる」仏教。など文系は複雑を複雑のまま飲み込むことを目的とします。
文学作品はその芸術的表れな訳です。
複雑性を複雑なまま提出できるのです。

泣くなんて単純な構造は低級。
悪役がいてヒーローがいるなんて単純な構造は文学にあらず。
キャラに固有の性格を持たせ、人格が捻れないキャラ小説は人間の複雑性を削ぎ落としているから低級。

そんな感じ。
そんな感じに、思ってました。

しかし何か、ひっくり返ったような気がします。

それとも『あの花』が例外的に「泣く物語」でありながら高級文学なのか?

普段のり子は物語にあまり興味がないというか、世界観とツッコミどころと構造ばかり見てしまうんです。
だから主人公に感情移入させたりすることがほとんどない。
物語展開にワクワクするというのも、そうなるのを狙ってやらないと普段はそれ以外の場所ばかりを見てしまう。

でも、そのおかげで、自分で小説を書くときに構造から入れたりするんですよ。
物語の骨組みですね。肉付けは偶然目に入ったものを順番に引っ付けていけばいいので、どんな物語もそのうち出来上がる。
しかし、そのやり方は『あの花』には通じなかったんです。

つまり、今回で見たのが二度目。
にもかかわらず『あの花』の物語構造はよくわからなかった。

と言って一体何を話しているのか伝わらないですよね。
物語構造とも少し違う。もっと自分からの言葉で伝えると、どうやってこの物語を作ったのかが想像できない。ということです。

仮面ライダーは「変身」から思いついたのだと思います。
「変身」で話が書きたい。
ではなぜ変身できるのか→体を「改造」されたから
誰が改造したのか→「敵の組織」
と作れるわけです。

ここまでくると、じゃあ自分は「退化」で作ろう。
なぜ退化するのか→
と順番に考えたり。
なぜ変身できるのか→「変身」する宇宙人種がいて主人公は赤ちゃんの時に地球に……
と変更できたりするわけです。

けれど、『あの花』はどうも自分のものにできない。

感動する話というのは案外表現世界におけるフロンティアなのかもしれない。

と思いました。

〈泣く物語なんて簡単に作れる〉と書きました。
けれど、そう思えてしまうのはギミックが固定されてるからではないでしょうか。不治の病とか、バラバラになったみんなとか、青春とか、夏とか。

だから簡単に見えるけど、構造としては案外苦しまないといけないぞ!
という可能性が。

もしかしたら今までずっと見るのも避けてきたし、下に見てたから知らないだけで、ちゃんと研究すれば簡単に作れてしまうものなのかもしれません。
ともかく言えることは、そのうち泣く物語ばかり書く時期が来るかもしれません。
書けないと思ったものは、書かないと。

それともう一つ、ふと想像した話があって、それは『あの花』は神を無くしたキリスト教の話だ、ということです。
つまり『罪と罰』であり『カラマーゾフの兄弟』だということ。
これらドストエフスキー作品とテーマを同じゅうしているのではないか!

ヨーロッパの価値観について書いた本で『存在の大いなる連鎖』という本があります。
ここではヨーロッパキリスト教はプラトン的世界観の中にあるとあります。

それは鎖で繋がれたような世界観です。

一番上に神がいて、そこから鎖でつながるように人や鳥、獣、虫と繋がって行く。下になるにつれれ神から遠い存在になる。そして一番下に悪魔がいる。

神 —— ○ —— ○ —— ○ —— 悪魔

『あの花』の構造もこうなんです。
ネタバレになりますが、登場人物は六人。そのうち五人の恋愛関係がこじれていて、

幼少時代に死んだ「めんま」
「めんま」のことが好きな「じんたん」
「じんたん」のことが好きな「あなる」
「めんま」のことが好きな「ゆきあつ」
「ゆきあつ」のことが好きな「つるこ」

    ○ —— ○
  / 
神(めんま)
  \
    ○ —— ○

さっきの図の神がめんまで、その下に男の子二人、その男の子につながるように女の子の二人がいる。

男の子二人は「めんま」のためにしか一生懸命になれず、女の子二人は一生懸命な男の子が好き。
でもその好きな「一生懸命の男の子」は「めんま」の方を向いているのです。
そして現在「めんま」はいません。

「めんま」なき今、男二人はふぬけのようになって生きる意味を消失している。
だから女子も堕落する。(女子はポーズだけ堕落して、その内側はちゃんとしています。その辺、本当の意味で弱い男とは違っている)

    ○ —— ○
  / 
空白
  \
    ○ —— ○

この状態になってしまうと、鎖は崩れてしまいます。
だからみんなバラバラになってしまう。
気持ちも通じ合わなければ、顔を合わせればすれ違って喧嘩する。
そしてこの状態から、どうやってみんなを一つにし、止まった時間を再び動かすか、また新しい明日を望む精神を作るか、こんなことがテーマになっているので驚きです。

しかもこの鎖の崩れたバラバラ状態から回復する方法もまたキリスト教っぽくて、

「めんま」がキリストよろしく生き返るのです。

作中「じんたん」にしか「めんま」の姿は見えなかったのですが、最終話、最後のシーンで全員が目にします。
それで、号泣。

すごい話だなぁ。
もっと深掘りすれば、もっと見つかりそうです。

あと、これは流石にちょっと……っていうネタなんですけど、

キャラクターみんなにあだ名があるんです。
安城あんじょう鳴子なるこ」で「あなる」
鶴見つるみ知利子ちりこ」で「つるこ」
松雪まつゆきあつむ」で「ゆきあつ」

でも「めんま」だけ、
本間ほんま芽衣子めいこ」で「めんま」
みんな単純なんです。
名前が「じんた」だから「じんたん」みたいに。

この「めんま」のあだ名問題。
由来は「a men」つまり「アーメン」
「a men」を続けて書くと、「a men a men a men」
この中に「men ma」が……
……隠れてねえやw (≧∀≦)テヘッ

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