放哉の本を読まずに孤独  せきしろ(著)


放哉の本を読まずに孤独

SNSには何気ないつぶやきがあふれている。
生産性が、あるものないもの。
見えない誰かに訴えているものないもの。
詩のようなもの散文のようなもの。
それはメッセージであったり、ほんとうに個人的なメモ程度のようなものだったりする。
私自身、それらの言葉に関心がほとんどない。
他人の部屋をのぞき見しているような雰囲気になるからだ。
YouTubeではまさにその「のぞき見趣味」的な動画が毎日アップロードされている。
おそらく需要があるのだろう。

あくまで個人的な意見としてだが、自由律俳句と冒頭にあげたSNSとの親和性は高いように思う。
横に並んで真っ直ぐに、見えない地平線へと向かっている。
しかし両者はどこかで決定的に異なる。
似ていはいるが、まるきり違う。
何がどう、と明確に説明は出来ないが、確かにちがう。
ひょっとしてベクトルの違いだろうか。
他者に向けて発信するのがSNSの類なら、自由律俳句のそれは自分の心に真っ直ぐ向けた表現か。
だとしたら、己に向かって真っ直ぐ発信するツイートがあるとしたら同類になるんだろうか?
答えは否である。
あるいは他者に向けた自由律俳句ならば…?

テクニカル的な目線で見れば、推敲の有無が大きく左右しているように思える。
ツイッターとかの文章には「思いつき」や「いきおい」みたいに恣意的な性格が見えるような気がする。
推敲があるかないかの違いはとても大きい。云うまでもないことだけど。

何だかよくわからないけれど、ひとつ云えるのは、自分の心に真っ直ぐ進めば進むほどそれは案外普遍性を持つという事だ。
不思議なことだけれど。逆みたいだけれど。
いっぽうで、他人の目を気にしすぎると、その表現内容はどこまでもスカスカだ。
自戒を込める。
これはあくまでも独り言だ。
尾崎放哉は土手の草を友として呟き、自分だけが持つメロディで詩を読んだのだろう。
その音楽は100年経った今でも新鮮に聴こえる。


842236

この記事が参加している募集

#自由律俳句

29,937件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?