『次の角を曲がったら話そう』


伊集院光 監修

大いなる勘違いを僕は、いままでしていたのかもしれない。
愛されていなかったのかも、なんて百も承知だのに。お腹がすいている。いつでも。
いまのところ見えるのは影だ。
でもやがてそれも見えなくなる。
忘れられるし忘れてゆく。
インターネットには答えがあふれているよなんてみんなは云うけれど、僕の知りたい答えはひとつも見当たらない。
電話なんかほんとは要らない。
ログアウト。

自分には詩心がない。
絵心もないしダンスも出来ない。
他の誰かが書いた詩を読んで「わかる」ことなんて、ほとんどない。
「わからない」ことが詩を読むことだとすら思っていて。
みんなは僕を狂っていると云うだろう。
そうかもしれない。
気づかなかったけれど。
精神的にタフじゃないね。
タフそうに見える人は案外弱くて、弱そうに見える人は案外タフだって誰かが云ってた。誰だろう。自分かもしれない。

自由律俳句という部門があって、それは五七五じゃなくてもいいよーということ。
季語もなくてもいいよーということ。
せきしろや又吉がやっているアレ。
尾崎放哉や山頭火がやっていたアレ。
縛りがなくて自由だけど、じゃあルールはといえば、あるのかないのか。
ルールはやはりある。
ルールというか、ご法度が。
それは「五七五で創ったら駄目である」ということ。
それではただの定型詩になってしまう。
じゃあ自由じゃないじゃん。
厳密な「自由」の意味からは外れている。
五七五以外ならいいのか、というとやはりそうではないだろう。
140文字で書いたらどうだ。
それではツブヤキになってしまう。

暗黙の了解のうちにそれらはだいたい一行で書かれている。
相場は一行。
作品を読みすすめているとそれらはだいたい「一言ギャグ」みたいな様相を呈してくる。
もう俳句ではないのかもしれない。
何かひとことを云って、笑いを取ろうとしているのではと勘繰りたくなってくる作品もある。
季語は不要、といっても、何かしら季節を匂わせる表現が盛り込まれていてもいいのかもしれない。
厳密じゃなくてもいいから。それこそ自由な翼を広げて。
出会い頭にうっかり季語を使ってしまっている場合も含めて。

さらにこれは俳句にかぎらず、短歌や詩や小説でもいえる事だけど、句の対象を真正面から表現してしまうのはいかがなものか、と。
対象物をいかに隠すか。俳句や短歌や詩は特に、韜晦の芸だと思うから。
村上春樹はそれを小説でやっている感じがする。
ゆえに彼の作品は好き嫌いがはっきり分かれるのではないかしらん。
理解できない人はまったくできない。
好きな人は、理解は出来ないまでも何か「伝わる」ものがあるのだ、きっと。
木下龍也の短歌に好きなのがある。

鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい

おにぎりのことである。焼いた鮭の身を具にしたやつ。
でも彼はぜったいに「おにぎり」とは云わない。死んでも云わないような気がする。
しかしそこには詩がある。
おにぎりを食べたい気持ちを見事に詩に表している一首だと思う。
おにぎりをこのような云い方で表現してるこの歌の主人公はしかし、さほど鮭のおにぎりを欲していないかもしれない、とも見える。ザンギ定食があったら「やっぱりこっちにしよう」とか云いそうだ。
だから大仰なことは何も語ってはいないのだ。
しかし何かを表現している気がする。
それはそれこそ読み手の自由となる。何をその歌から受け取るかは。


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