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かじり読み読書感想文        ノーベル賞受賞作『雪国』にいちゃもんを付ける

細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。目尻が上がりも下がりもせず、わざと真直ぐに描いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下がり気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅に刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。」(新潮文庫『雪国』p28より)

細く高い鼻は少し寂しいはずだけれども、頬が生き生きと上気しているので、私はここにいますという囁きのように見えた。あの血の滑らかな唇は小さくつぼめた時も、そこ映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。下がり気味の眉の下に、目尻が上がりも下がりもせず、わざと真直ぐに描いたような眼は、今は濡れ輝いて、幼げだった。白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上がっていて、なによりも清潔だった。」(同上p63より)
 
   上の2つの文章は同じ小説のなかの一節である。あまりに有名な小説だからおわかりの方も多いと思うが、川端康成の『雪国』である。ともに駒子の容姿を描写した文章である。同一人物に対する描写だから、同じような表現になるのは当然と言えば当然であるが、私は違和感を覚える。『雪国』は短い小説である。その短い小説の中に似たような表現が2度繰り返されるというのは、どんなものであろう。くどいとしか思えない。p63の文章はp28の文章を書き直したものだと思う。鼻と眉、目の表現はさほど変わっていないが、唇と皮膚の表現が大きく変わっている。初め唇の表現に蛭をたとえとして使ったけれど、さすがに気持ちが悪いと思ったのだろう、蛭をはずした。皮膚のほうは、最初、陶器を比喩に使ったが、生き物ではないので、固く、冷たく感じられてしまうと思ったのであろう、皮を剥いた球根に替えた。眉と目の表現も、はじめは眉が主で目が従になっていたが、あとの方では、逆転している。明らかに後者の文章は前者の改良版なのである。
    この中編小説は、短編小説を合体させて作ったものだと聞く。最初の文章とあとの文章は別の短編のなかの文章だったのだと思う。その2つをつなぎ合わせた結果、こういう表現のだぶりにつながったのだと思う。と、いかにも川端康成がこのことに気が付いていないかのように書いているが、実際どうだったかは知らない。もし、わざとそうしたというのであれば、川端のセンスを疑う。
 

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