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中学の時に仲良くしてた子ひとりと、高校の時に仲良くしてた子3人は、未だにあの頃と同じトーンで会話ができる。

私がいわゆる自己肯定感がさほど高くなかった多感な時期、彼女たちは中学生の私、高校生の私に、それぞれの時代で、今思い返せば「あれはたくさんの勇気をくれてたんだな」と思えるものをもらっていたと、最近急に腑に落ちた(遅い)。

中高時代、自分へのダメ出しが多い私に、彼女達の言葉は「諭す」わけでも「否定」するわけでもなく、ただ丸いダイダイ色の感覚になって私の胸に溶け込んできていたことに「最近になって」気づいた。

なんかひとりじゃ出来ないであろうことが出来てしまったり、たとえチャレンジして、結果うまくいかなくても健気に凹むことが出来て。

嬉しいときだけじゃなくて、弱っちくなってるときにも彼女たちがいた。

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そして今も

中高時代ほどしょっちゅう会うわけでもないのにも関わらず、彼女たちと話すとき、わたしは幸せなむず痒さを感じながら、ダイダイ色の時間を過ごさせてもらってるのだ(と最近感じている)。

「ありがたいことなんだ」

という言葉に自分で気づいたのは、相当大人になってからで、干支が5回回ってくるのに近くなってからだ。

当たり前すぎる存在は、いつだって当たり前だから、いつまでもそこにあるものと感じやすい(けれどいつかそれぞれにお別れは来る)。

今もなお、その存在そのものが、ダイダイ色の愛を放ってる彼女たち(しかもこれ、なぜかくすむことがない)。

「わたしはわたしで大丈夫」

そんな気持ちを中高生で抱きしめられたなんて私はラッキーだったな(てなことにも最近気づいたのんびりさん)。

もし今、そんな「わたし感」を持ててない人がいるとしたら、それは単に今まで気づくきっかけがなかっただけだ。

「わたし感」は誰にだってある。だって「わたし」なんだもの。

私は親にタテ突く反抗期真っ盛りの頃の中高生時代「もういやだ!」感を日々感じていたから、自分でトビラを開いて「わたしの友だち」に会いに行ったんだな。

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もしあなたが「わたしってなんなんだろ」と感じているなら、今からでも遅くはないよ。

もしかすると、ある人にとってはそのタイミングはアラサーで、ある人にとってはアラフォーかもしれない。

けれど、どんなタイミングだってそれはその人のタイミングであり、遅いなんてことは絶対ない。命果てるまで、可能性はあるのだから。

じぶんでじぶんに納得できること、当たり前のようで当たり前に出来てなかったら、ここへおいでね。

*中は中3の修学旅行
*高は生徒手帳
の写真です。かわいいねぇ(笑)

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