見出し画像

「わかる」とは何か (長尾 真)

科学者への教育

 「わかる」ということについては、今までもいくつかの本を読んでみました。

 この本は、元京都大学総長(専攻:情報科学)の長尾真氏によるもので、科学・研究にたずさわる者に対して、ある種、教育的な立場?からの解説です。
 そういった点からみて、いくつか関心を惹いた部分をご紹介します。

 まずは、「因果関係と相関関係」についてです。
 なんらかの関係がありそうな二つの事象があった場合、それらの間に「明確な因果関係=法則性がある」のか、「単に相関性が高いだけ」なのかの判別は結構難しいものです。
 普段の生活においては、どちらであっても表層的事象は似たようなものなので特段気にはなりませんが、科学的立場からはそうはいきません。まさに、そこが研究のコアになります。

(p38より引用) 問題はたんなる共起の相関性が高いというだけなのか、あるいはその共起の理由を深く調べていくと、ある種の因果関係が見つかるのかという疑問である。科学はつねに疑いをいだき、そこに法則性が認められるかもしれないという態度で研究を進めていくべきであろう。そして確実な因果関係を発見する努力をするのである。

 2点目は、「科学者の説明責任」についてです。
 長尾氏は、科学の著作は「解りやすい文体」で書くべきだと主張します。

(p112より引用) 多くの著者のなかには、内容を正確に表現することが必要だというもっともらしい理由から、内容をことさらむずかしい用語を用いて、しかもひじょうに複雑な文体で表現することに喜びを感じている人がいるように思われるが、これは、学問を社会に広めていくという方向には逆行している。

 ただ、この点は、科学の著作に限らず、「人に何かを伝えるための媒体」に共通に当てはまることですね。

 もうひとつの主張は、「専門家としての姿勢」です。

(p173より引用) その分野の専門家といえども一般社会の一員以上の者ではありえない。一般社会人のほうに理解責任があるとしても、それ以上に専門分野の人の説明責任は大きいのである。

 蓋し “至言”だと思います。この言葉には、専門家を育成する立場である長尾氏の「教育者」としての一面が強く出ています。

推論の前提

 「わかる」過程は、「論理をたどった理解」とも言えます。
 論理をたどるにあたってはいろいろな方法がありますが、そのひとつが「推論」です。
 長尾氏は、「推論」にあたっての留意点として「場」の意識を挙げています。

(p83より引用) ふつうの推論においてはほとんど意識されないが、議論がおこなわれている「場」について考えることも必要である。これは、論理的には可能世界の問題と呼ばれているものと考えてもよい。

 「場」とは、議論が展開される土俵のようなものです。同じ土俵の中の話なのか、土俵外かが問題になります。土俵が違っていることを意識せずに議論・推論を進めると、(無意味な)「意見の対立」「理解不能」「同床異夢」といった状態になります。

 科学の世界での例示です。

(p83より引用) ・・・ある推論規則がどういう場で成立するものであるかを、つねに注意する必要がある。ニュートン力学は原子・分子のはたらきを調べる極微の世界では成り立たず、量子力学にその席をゆずることになる。物体は落下するというのも重力のあるところで、分子・原子のような極微の世界でなく、人間の目に見える程度の大きさの物質の場合といった多くの条件が存在するのである。

 しかし、科学的な議論に限らず通常の場合は、いちいち「前提」を明らかにしません。お互い “共通の土俵” で話していると思い込んでいます。
 この「共通の土俵」というのは極めてあいまいな概念です。よく“常識の範囲で”といいますが、この「常識」ほど突き詰めていくとあいまいなものはありません。
 「常識」とは“それぞれの一人一人で違うもの”だと思うべきです。
 「違う」ことを意識してそれを前提に議論の場に臨むと、「相手を意識した丁寧な説明」が自然にできるようになります。(ただ、くどくはなりますが・・・)

わかるレベル

 よく言われることですが、「わかる」という状態にも様々な形態があります。
 長尾氏は、「3つのレベル」に分類します。

(p116より引用) 「わかる」ということには、いくつものレベルがあることが想像できるだろう。
 第一のレベルは、言葉の範囲内で理解することであり、第二のレベルは、文が述べている対象世界との関係で理解することであり、さらに第三のレベルとして、自分の知識と経験、感覚に照らして理解すること(いわゆる身体でわかる)というレベルを設定することが必要であろう。

 そして、昨今の科学的トピックスを踏まえると、「科学」の立場から今後重視すべきは、「第三のレベルの理解」であると述べています。

(p116より引用) 科学技術の文章においては、第二のレベルまでの理解でよい。しかし、第三のレベルの理解ということが必要な場面も出てきつつある。たとえば遺伝子操作、クローン生物、臓器移植、脳死判定といった問題になると、理屈の世界でわかっただけでは私たち人間は納得できず、感情的体験的世界においても納得することが必要であり、これを避けて通ることができなくなっているのである。

 長尾氏は、別の章でも、科学的理解以上のものとして「感情的理解」「感性的理解」の重要性を指摘しています。
 「理解」に「優劣」があるとは思いませんが、“理解の質的な違いを意識する”という視点は大事だと思います。
 「頭ではわかるんだけど、どうしても納得できない・・・」という、いわゆる “普通の感覚での納得感” の問題です。

(p174より引用) 論理的な理解のほかに身体的レベルにおける理解、心の底から納得できる状態というものがあって、これはかならずしも論理的なものかどうかはわからないが、個人にとってはむしろこの納得のほうがはるかに優位にある理解といってよいだろう。客観的真理が絶対的なものでなく、それを超えた理解の状態の大切さということにもっと目を向けるべき時代にきているのではないだろうか。

 科学者として、さらには科学者を育てる教育者として立場からの主張であるだけに、なおさら注目すべき指摘だと思います。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?