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君主論(マキアヴェリ)

プレゼンテーションとしての「君主論」

 「君主論」は、1515もしくは1516年、マキアヴェリが政治生活への復職の期待をこめて、フィレンツェの最高指揮官職に昇ったロレンツォ・デ・メディチに献呈したものと言われています。
 いわば、彼自身の売込み企画のプレゼンテーションツールでもあったわけです。
 そういう観点からこの「君主論」を見てみると、プレゼンテーションとして非常によくできた分かりやすい構成になっていることに気づきます。

 まずは、章ごとにテーマを分けて興味を引く簡潔な見出しをつけています。また、それぞれの章のボリュームは、読みやすいコンパクトなサイズにまとめられています。
 記述の構成は、全体構成も各章内の構成も同じく、非常に単純明快なロジカルなつくりです。
 第1章で「支配権の種類とその獲得方法」としてMECEを意識した「場合分け」がなされています。この基本的な場合分けが全編を通して貫かれています。そして、それに続く各章は、それぞれの場合分けのケースごとに丁寧に各論を重ねています。

 章の中の構成は、基本的には、
  さらに細分された場合分け
  各場合ごとの論旨
  複数の具体的根拠
  想定される反問とその回答
  まとめ・結論
となっています。

 具体的根拠は、現代および過去の実際の支配者たちの実証された事実をもとに示されているので、(読み手である支配者層の立場からみると)極めて納得性が得やすいものが選択されています。
 また、その列挙にあたっては、「第一に・・・」「第二に・・・」というように体系的に順序だてて整理された形で記されています。
 特に、「想定される反問とその回答」の部分は、マキアヴェリの検討があらゆる側面からなされていることの証となり、彼の主張の説得力を増すことに大きく貢献しています。

 そして、最後の章(第26章「イタリアを蛮族から解放すべし」)は、それまでの章の冷徹な分析的・論理的な書きぶりとはうって変わって、極めて扇動的・情熱的な筆致になっています。そのメリハリの利いたコントラストは非常に効果的です。献呈したロレンツォ・デ・メディチに対して熱く訴えかけ、プレゼンテーションを劇的に締めくくっています。

 「君主論」は、プレゼンテーションという視点でみても極めて面白い優れたパフォーマンスだと思います。

君主論≠マキアヴェリズム

 君主論→マキアヴェリ→マキアヴェリズム→「目的のためには手段を選ばない」→「権謀術数」と連想ゲームは進みます。
 が、実際「君主論」のどこを読んでも、マキアヴェリは「目的のためには手段を選ばない」などとは言っていません。むしろ、以下のように、極めて穏当な姿勢を薦めています。

(p176より引用) 「支配者たる者は・・・さまざまな不都合の特質を知り、より少ない悪を良いものとして選ぶことを知るのが、賢明というものである」

 それぞれの案をよく吟味し、よりよい選択肢を見極めるべきとの主張です。そして、その選択にあたっての判断軸のひとつが「民衆」です。

 当然のことながら、「君主論」には、君主の地位を獲得するための、またその地位を維持するための能力・方策として何が必要かの論述が多くありますが、その根底には常に「民衆」を意識した目線があります。

(p92より引用) 「君主は民衆を味方にすることが必要であり、さもなければ逆境にあって施す術がない」
(p170より引用) 「最善の砦とは民衆に憎まれないことである」

 君主の支配に係るステークホルダとしては、貴族・教会・軍隊等を挙げていますが、それらの中で何より重要なのは「民衆」だという意識は明瞭に開陳されています。決して君主の視座からの「権謀術数」の論ではないのです。

(p170より引用) 「君主は・・・市民達が安んじて商業、農業、その他諸々の職業にいそしむように励まし、彼らが自らの財産が召し上げられるのを恐れて自らの所有物を目立たせないようにしたり、課税を恐れて商業取引を控えたりしないようにしなければならない」

 まさに「王道」の「君主論」です。

マキアヴェリの「運命と自由意志」論

(p189より引用) この世の事柄は運命と神とによって支配され、人間は自らの思慮を用いてその動きを変えることはできず、それに対しては手の施しようがない、という意見を多くの人々が昔から懐き続けている。・・・しかしながら人間の自由意志は消滅せず、したがって運命はわれわれの行為の半分を裁定するが、他の半分、あるいは半分近くはわれわれが支配するよう任せているのが正しいのではないかと私は判断している。

 マキアヴェリは実証的・論理的な思考様式の持ち主であり、その姿勢も「王道」だと思います。

(p192より引用) もし人が時勢や状況の変化に応じて、自らの行動を変えてゆくならば運命は変化しないことになろう。

 このように、マキアヴェリは変化への対応の重要性を指摘していますが、同時に現実も冷静に見ています。

(p192より引用) かかる状勢の変化に適応できるほど賢明な君主は見当らない。それというのも人間は生来の性向から離れることができず、またある方法によって常に成功した人間にその方策を捨てるよう説得することはできないからである。

 とはいえマキアヴェリは運命を黙って受け入れることを決して容認してはいません。果敢に行動することにより、自ら運命を切り開くべきと訴えています。

(p194より引用) それゆえ次のような結論が得られる。運命は変転する。人間が自らの行動様式に固執するならば運命と行動様式とが合致する場合成功し、合致しない場合失敗する。私の判断によれば慎重であるよりも果敢である方が好ましいようである。・・・運命の女神は冷静に事を運ぶ人よりも果敢な人によく従うようである。



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