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嫌われた日本 (高島 秀之)

 アメリカの雑誌「フォーチュン」は1930年代から40年代にかけて3回、日本特集号を発行しました。
 本書は、それら3つの特集記事を比較しつつ読み解くことで、戦時におけるジャーナリズムのひとつの姿を浮き彫りにしています。

 当時のフォーチュンの編集や執筆に加わっていたのは、ピーター・F・ドラッカー、ジョン・K・ガルブレイズ、ダニエル・ベル、アルビン・トフラーなどの錚々たるメンバでした。もちろん、彼らも若く、何人かはまだ駆け出しの記者レベルでした。

 本書を読んで改めて思ったことは、よく言われるジャーナリズムによる世論の誘導は、「知らせること」と同じく「知らせないこと」によっても為され得るということでした。

(p111より引用) 大新聞がファシズムへ傾斜して行く中、海軍少佐石丸藤太の『一九三六年』が上梓された。・・・その中で石丸は、「凡そ今日の世界に於て、日本ほど広く憎まれているものはない。その憎まれ方は第一次大戦中のドイツ以上かもしれない。ただその世間に知れないのは、新聞がこれを黙殺するからである」と述べている。

 「知らせない」という点では、原子爆弾に関する報道も検閲の対象になったと言います。原爆投下直後の惨状を写した写真のネガは、長く倉庫に納められたままでした。

(p194より引用) アメリカ空軍撮影の「きのこ雲」は、その威力を知らしめる映像として広く喧伝されたが、世界が「きのこ雲」の下の地獄の映像を知るには、さらに七年の歳月を要した。一九五二年、講和条約発効によってGHQの検閲が終わってから、初めて被爆直後の写真が『ライフ』に掲載された。

 「フォーチュン」「タイム」「ライフ」を刊行するタイム社の社主ヘンリー・R・ルース氏は、日本嫌いでした。特に「タイム」「ライフ」にはその考えが顕著に表れていました。しかし、1950年以降、変化が見られます。

(p199より引用) それ以後、ルースは、日本を共産主義の防波堤と考え、アメリカの友として扱い、日米同盟の重要性を訴えるようになる。『ライフ』は「奥ゆかしく、美しい文化を持つ日本」を特集し、茶道や京都の寺院をカラーグラビアで紹介し始めた。

 ちなみに、本書の著者の高島秀之氏は、35年間NHKに勤務、放送部長・編成部長・放送局長等の要職を歴任、主に、NHKスペシャル・中学生日記・市民大学講座などのドキュメンタリー・教養/教育番組に従事した方です。


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