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ゾウの時間ネズミの時間 (本川 達雄)

解説の妙

 1992年出版ですが、この年大きな話題になった本です。
 タイトルのネーミングが絶妙で多くの人の興味をひきました。

 内容は、「サイズ」をキーコンセプトにした変わった切り口の生物学入門書です。いくつかの数式が登場する反面、素人でも直観的に「なるほど、そうかも・・・」と思えるような例示や説明が随所にあります。

 たとえば、古生物学における「島の規則」です。

(p17より引用) 島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は大きくなる。

 この理由はこういう推定です。
 「島が小さいと、草が少なく草食獣が少ない、このため肉食獣(=捕食者)が少ない。このため、襲われにくいために大きな体をしていた大きな動物は小さくなり、捕食者から逃げやすいために小さな体をしていた小さな動物は大きくなる。」から、といった感じです。

(p20より引用) 動物には、その仲間の体のつくりや生活法から生じる制約がある。だからサイズにしても、むやみと変えられるものではなく、ある一定の適正範囲があるものと思われる。その適正範囲の両端のものは、何らかの無理がかかっていると見てよいのではないか。

 また、こんな説明もあります。
 イルカが人間に好かれるのは、「泳ぐ哺乳類のエネルギー消費量が小さいことによる」というのです。 

(p66より引用) 驚くべきことに、泳ぐ哺乳類では、泳いでもほとんどエネルギー消費量が増えない。・・・
 アシカやイルカの水槽をながめていて、こいつらは、なんでこんなにくるくるくるくると泳ぎまわっているのだろうかと、不思議に思ったことがある。こう考えてしまうのも、われわれはいつも、なんらかの目的をもって動いているせいだろう。かなり大きな陸上動物であるヒトは、歩くのにも走るのにも、相当のエネルギーを必要とする。だから目的なしに、ヒトは動きはしないだろう。
 運動に、なんらコストがかからなければ、無目的に動き回るということは、あり得ることである。卑しさは、顔に出るものであろう。無邪気に泳いでいるイルカたちを見ていると、なぜ彼らが、これほどまでに偏愛されるのか、分かるような気がしてくる。

推定可能

 この本には、学術的なものの見方や考え方を知るヒントが多く含まれています。

 本書の場合は「動物のサイズ」をキーコンセプトとして、種々の視点から生物の設計原理に関する論を進めます。
 具体的には、サイズを基礎に、さまざまな比較項目を掲げ、対象を座標上にプロットして行きます。(ここでは、「サイズ」は「体重」に置き換えられています)
 体重×標準代謝量、体重×摂食率、捕食者の体重×餌の体重、体重×移動速度、体重×運搬コスト等々・・・。これらを見ながら、著者はさまざまな仮説を立てるのです。

(p56より引用) いろいろな事項をサイズの関数として、体重の指数式で表しておくと、直接は測れないものも、測定できたものを組み合わせることにより、推定可能になる。
 全体のサイズが変わったら、機能や各部分のサイズがどのように変化するだろうか。この変化の様子を記述するときに、部分を全体のサイズの指数関数として近似して書き表すやり方を、アロメトリーと呼ぶ。・・・アロメトリー式を組み合わせれば、いままで気づかなかった関係が分かってくる。直接測定不可能な関係も導き出せる。

 興味深いですね。いったん一般的な関係式が成立すれば、直接確認できないことについても「推定」できるようになります。

 また、ひとつのコンセプトに対するこだわりが、いくつもの事象の原因追求のヒントになることもあります。
 以下は、「表面積/体積」というコンセプトへのこだわりの例です。このこだわりが、「サイズの大きな生物に『呼吸器』が発達した原因に関する仮説」を導き出しています。

(p102より引用) サイズが小さければ、呼吸系もまた必要ない。動物は、外界から、栄養物や酸素を取り込む。これらは体の表面から入ってくるので、入る量は表面積に比例するだろう。一方、それを消費する方はというと、体の組織が使うのだから、消費量は組織量に比例し、これはまさに体積に比例する。サイズの小さいものでは〈表面積/体積〉は大きい。サイズが増えるにつれ、この比は小さくなっていく。だから、サイズの大きいものほど、需要が増える割には供給が増えないことになる。そこで酸素を取り込むために特別に表面積をふやす必要が出てくる。これが呼吸系である。

 体が大きくなると、「表面積/体積」の関係から、そのほかにもさまざまな構造上の工夫が起こります。

(p102より引用) われわれ大きい動物は、呼吸系や、それと密接に結びついた循環系という複雑な構造を進化させてきたが、これは〈表面積/体積〉問題を解決しようとした結果である。サイズが小さければ、これらはなくても間に合う。

 体の大きさが呼吸器系や循環器系発生の要因であったという考え方ですが、「そう言われればなるほど」という説得力を感じますね。

 こういった仮説設定のプロセスは、いろいろな物事の捉え方・発想の仕方の参考になります。

生物学者の多様な発想

 生物界には「車輪」がないと言います。(バクテリア類には車輪の機構をもつものがいるらしいのですが)

(p68より引用) まわりを見回しても、車輪を転がして走っている動物には、まったくお目にかかれない。陸上を走っているものたちは、二本であれ、四本であれ、六本であれ、突き出た足を前後に振って進んでいく。空を見上げても、プロペラ機は飛んでいても、プロペラの付いた鳥や昆虫はいないし、海の中でもやはり、スクリューや外輪船のような、回転する駆動装置をもった魚はいない。

 言われてみればそのとおりですが、改めてこういった視点を切り出されると、自分の固定化された発想しか浮かばない頭が情けなく、また物足りなく感じられます。

 この車輪の話から派生して、「技術と環境」についての話題に移って行きます。 

(p74より引用) これらの技術がわれわれの暮らしを豊かにしてきたのは、間違いのない事実である。しかし、使い手を豊かにするという観点ばかりに重きをおいて技術を評価する従来のやり方を、考え直すべきときにきているというのもまた事実である。

 技術を評価するメルクマールは、「豊かさ」以外にも、「人間との相性」や「環境」という観点も必要だとの主張です。

(p74より引用) 人間との相性ということからみれば、道具が、手や足や目や頭の、すなおな延長であれば、それに越したことはない。作動する原理が、道具と人間とで同じならば、相性はよくなる。残念ながら、コンピュータやエンジンは、脳や筋肉とはまったく違った原理で動いている。だから操作がむずかしいのである。自動車学校にみんなが行って免許をとらなければいけないこと自体、車というものが、まだまだ完成されていない技術だという証拠であろう。

 こういった観点からは、これだけ普及している自動車ですらまだまだ未熟な技術ということになります。
 さらに、論は続きます。

(p75より引用) 環境と車との相性の問題は、大気汚染との関連で今まで問題にされることが多かった。しかし、ここで論じてきたように、車というものは、そもそも環境をまっ平らに変えてしまわなければ働けないものである。使い手の住む環境をあらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言いがたい。

 とても鋭い指摘ですね。自動車を「環境を自分に合わせなくては機能しない未熟な技術」と喝破する視点は、私にとっては非常に斬新に聞こえました。

 車輪という技術は、極めて限られた条件下の「環境」においてのみ適用できるのです。そういった環境条件が満たされない場合は、車輪という技術を捨てるか、逆に、車輪に適合するよう「環境」を変えるか、のいずれかの道を選択することになります。
 自然界の生物は前者を選択し、人間は後者を選択したのです。


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