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木のいのち木のこころ 天 (西岡 常一)

個性の木組み

 著者の西岡常一氏は、世界最古の木造建築である法隆寺の修繕・解体の仕事を代々受け継いできた「法隆寺大工」の最後の棟梁となった人物です。

 その西岡氏が、法隆寺大工に代々伝わる「口伝」をもとに、その経験と叡智を記したのが本書です。

 西岡氏は、飛鳥の工人の叡智のひとつとして、「木の癖を見抜きそれぞれの違いを活かす木組み」を紹介しています。

(p4より引用) 私らが相手にするのは檜です。木は人間と同じで一本ずつが全部違うんです。それぞれの木の癖を見抜いて、それにあった使い方をしなくてはなりません。そうすれば、千年の樹齢の檜であれば、千年以上持つ建造物ができるんです。これは法隆寺が立派に証明してくれています。

 西岡氏の「木」に対する姿勢は、「人」に対する姿勢にそのままつながります。「違っているものの集まり」の美しさ・強さを説きます。

(p90より引用) これらの建物の各部材には、どこにも規格にはまったものはありませんのや。・・・よく見ましたら、それぞれが不揃いなのがわかりまっせ。どれもみんな職人が精魂を込めて造ったものです。それがあの自然のなかに美しく建ってまっしゃろ。不揃いながら調和が取れてますのや。すべてを規格品で、みんな同じものが並んでもこの美しさはできませんで。不揃いやからいいんです。
 人間も同じです。自然には一つとして同じものがないんですから、それを調和させていくのがわれわれの知恵です。

 そういう西岡氏の目には、現代は「個性が埋没した世界」と映っているようです。「個性」を大事にとはいいながら、そういうお題目自体が、均質的な社会に浮遊しているといった感覚です。

(p2より引用) 時代は科学第一になって、すべてが数字や学問で置き換えられました。教育もそれにしたがって、内容が変わりました。「個性」を大事にする時代になったといいますな。
 しかし、私たち職人から見ましたら、みんな規格にはまった同じもののなかで暮らしているようにしか見えませんのや。使っている物も、住んでいる家も、着ている服も、人を育てる育て方も、そして考え方まで、みんな同じになっているんやないかと思っております。

 そんな没個性の世界からは、創造的な文化は育ちようがありません。

(p89より引用) 均一の世界、壊れない世界、どないしてもいい世界からは文化は生まれませんし、育ちませんわな。職人もいりません。

 もうひとつ、別の観点から話です。
「個性重視」という場合、その人材活用の具体的方法として「適材適所」が言われます。
 西岡氏のいう「適材適所」は、普通に浮ぶイメージとちょっと違うかもしれません。「西岡氏流適材適所」は、ある人の(長所はもちろんですが)「欠点も生かす」ようにすることを言います。

(p116より引用) 適材適所といいますが、いいところばかりではなしに、欠点や弱点も生かしてその才能を発揮させてやらなならんのです。いいとこだけを拾い出して、いいとこに並べるというのとは違いますからな。・・・よく嫌なやつを無理して使うことないやないかと言われますが、そういうわけにはいきません。そういうわけにはいかんというよりも、そういうふうにいわれる人でも使えるところがありますのや。おもしろいことにそういう癖のある人にとても間に合うところが必ずありますさかいに。私はこれまで長いこと棟梁をやってきて、使え切れんから首にしたことは一度もありませんな。

 「個性の木組み」が、法隆寺を世界最古の木造建築物として今に残したのです。

口伝の心構え

 西岡氏が、直接には師匠である祖父から、そして源ははるか昔の飛鳥の工人から受け継いだ「口伝」です。
 細かくは100を越える数あるそうですが、その中で氏が特に重きを置いているものを紹介しています。

(p52より引用) 口伝にも木の扱いに関してはいろいろ教えております。
「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」
「木は生育の方位のままに使え」
「堂塔の木組みは木の癖で組め」
 いずれも木の使い方の心構えを説いたものですな。要は自然の教えるままにしなさいと言うているわけです。その自然に対する心構えというのがどうしても大事になりますな。ものを扱うのも技術も、心構えなしには育たんもんですわ。

 西岡氏にとって「口伝」は、自分の思考そのものと化しています。氏の姿勢は、そのまま、まさに「口伝」の具現と言えます。

(p54より引用) やっぱりたった一本の木でも、それがどんなふうにして種が播かれ、時期が来て仲間と競争して大きくなった、そこはどんな山やったんやろ、風は強かったやろか、お日さんはどっちから当たったんやろ、私ならそんなことを考えますもんな。
 それで、その木の生きてきた環境、その木の持っている特質を生かしてやらな、たとえ名材といえども無駄になってしまいますわ。ちょっとした気配りのなさが、これまで生きてきた木の命を無駄にしてしまうことになるんやから、われわれは十分に考えななりませんわ。

 そういう西岡氏の言は重厚です。名人が重ねた年輪を感じさせます。
 以下は「木の風格」に関する西岡氏の言葉ですが、まさに「人」にも当てはまる卓見です。

(p34より引用) 年を取っている木で大きなものでも、中が空洞やウロができているもんは一見若々しいですな。こういう木は周囲だけが生きていますのや。栄養が全体に達しんと、葉のところだけが若々しいんやけど、年を取って中がしっかり詰まっとるのは栄養が回りきらんから黄ばんだような、くすんだ感じがしますんですな。これも弱って黄ばんどるのとは違いまっせ。こういう木は材にしても風格がありますな。

個性を育てる徒弟制度

 西岡氏は、祖父を師匠に厳しい「徒弟制度」の中で育ちました。
 西岡氏には弟子はひとりしかいません。その弟子、小川三夫氏を取るにあたっても3回追い返したといいます。そして、弟子にすると決めるや、納得づくでとことん育てました。

(p88より引用) 徒弟制度は時間がかかります。大量生産がききませんのや。一人一人違うものを育てるんやからな。

 徒弟制度による育成は、まずは弟子の側に厳しい修行に耐えて「一人前になるという強い意志」がなければなりませんが、育成する側にも「一人前に育てるという覚悟と使命感」が不可欠です。
 その意味では、1対1の真剣な「教育」の実践です。

(p90より引用) 徒弟制度といいましたら古いもんといわれていますが、古いからすべてが悪いというもんやないやないですか。すべて同じ人間にしようという教育よりは、よっぽど人間的な育て方でっせ。
 私は長いこと法隆寺や薬師寺などの古代建築を見て不揃いの木を扱ってきましたが、自分が育てられて来た徒弟制がすべて悪いとは思いませんな。むしろこんな時代やから、個性を大事にして人を育てるという意味では、もっと見直されてもいいんと違いますか。

 職人としての技能は、本を読んで頭で理解しても決して身に付きません。また、他人に教わるだけでもだめです。本人自身が、地道な経験を重ねることで、感覚としてまた体で覚えるしかありません。

(p94より引用) 頭ごなしに「こうやるんだ」と教わってもできません。手取り足取り丁寧に事細かに教わってもできませんな。
 素直に、自分の癖を取って、自分で考え、工夫して、努力して初めて身につくんです。苦労して、考え考えしてやっているうちに、ふっと抜けるんですな。そしてこうやるのかと気がつくんです。こうして覚えたことは決して忘れませんで。

 こういう覚え方に至るのも、徒弟制度での師匠の指導の賜物です。
 師匠は、四六時中、弟子の様子を厳しくも温かい眼でつぶさに見ています。そして、遠まわしに、弟子が、自分の頭で考えそれにより自らの向上心が高まるような、そんな一言をかけるのです。



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