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五輪書 (宮本武蔵・鎌田茂雄)

合目的

 江戸初期の剣豪宮本武蔵(1584?~1645)による江戸時代の代表的な剣術/兵法の書です。

 内容は、武蔵自らあみ出した二刀流(二天一流)の奥義を簡潔丁寧に伝授したもので、密教で言う「地・水・火・風・空」の五輪で構成されています。全編、武蔵のたゆまぬ鍛錬と真剣勝負とで体得した実技、実践法が記されており、一切の無駄を排した「戦闘に勝つための徹底した合理性」が底流に認められます。

 たとえば、「構え」についてです。

(P119より引用) 有構無構といふは、太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず。・・・構はありて構はなきといふ利也。先ず太刀をとつては、いづれにしてなりとも、敵をきるといふ心也。若し敵のきる太刀を受くる、はる、あたる、ねばる、さはるなどといふ事あれども、みな敵をきる縁なりと心得べし。

 また、「太刀の使い方」にも、多くの手を認めません。

(P222より引用) 先ずきる所の道なれば、数の多かるべき子細にあらず。・・・我兵法においては、身なりも心も直にして、敵をひずませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝つ事肝心也。能々吟味あるべし。

 本書によると、武蔵は13~29歳ごろまで、各地で60回以上の他流試合を行い、一度も負けなかったと言います。
 武蔵の最も有名な戦いは、1612年(慶長17)最後の試合といわれる船島(巌流(がんりゅう)島:山口県)での佐々木小次郎との一戦でしょう。小次郎が刀をぬいて鞘を海中に投げ捨てたところ、「小次郎、敗れたり」と武蔵が叫んだと言われる例の戦いです。

 その後、武蔵は、剣術の表舞台から姿を隠します。そして、再び1640年(寛永17)には熊本藩に客分として招かれるまでの間、武芸だけでなく、水墨画・彫刻・連歌・茶の湯も嗜み、広く諸学問を追究していきました。
 熊本藩にて、武蔵は、大組頭格となり家中に兵法を伝授しました。そして、1645年没するまでの間、「兵法三十五箇条」「五輪書」「独行道」を記したのです。

兵法の道

 五輪書の初巻「地之巻」の巻末に、以下のような兵法を学ぶにあたっての心得が記されています。

(P85より引用) 我兵法を学ばんと思ふ人は、道をおこなふ法あり。
 第一に、よこしまになき事をおもふ所
 第二に、道の鍛錬する所
 第三に、諸芸にさはる所
 第四に、諸職の道を知る事
 第五に、物毎の損徳をわきまゆる事
 第六に、諸事目利を仕覚ゆる事
 第七に、眼に見えぬ所をさとつてしる事
 第八に、わづかなる事にも気を付くる事
 第九に、役にた丶ぬ事をせざる事
大形如此理を心にかけて、兵法の道鍛錬すべき也。此道に限りて、直なる所を広く見たてざれば、兵法の達者とは成りがたし。

 「物事の利害損得を知ること」や「役にたたないことはしないこと」といった心得は、武蔵の合理的姿勢を表わすものです。
 さらに武蔵は、兵法の鍛錬のみに止まらず、実直であることや、広く多芸や職能に触れることも併せて薦めています。

 さて、五輪書の「水之巻」以降、兵法の道に至る具体的な教えが書き連ねられていますが、その中でも基本のひとつは「心持」についてです。武蔵はこう諭します。

(P92より引用) 兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。

 心は、真ん中に置くべきと言っていますが、それは「固定」することではありません。常に流動自在な状態にしておく、それにより、どんな状況に置かれようと心はそれに柔軟に対応して、(結果として)心持ちは安定し続けられるようになるのです。

 さらに、この点、訳者の鎌田氏によれば、武蔵の「常の心」はまさに武蔵流だと言います。

(P99より引用) 柳生宗矩は沢庵から禅の指導を受けていたため、平常心というものを禅の立場から説いたが、武蔵の『五輪書』の平常心は平常心ではなくて、平常身であることに注意しなければならない。
 平常心が観念的であるのに対し、平常身は具体的である。「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする」ことが一番大切であると武蔵はいうのである。戦いの場において常の身を保つには、朝鍛夕錬の修行によって身を鍛えあげておかねばならないのである。身が感じ、身が思うようにならなければ武蔵のいうことは分からぬ。

 ちなみに、柳生宗矩の平常心については、以前よんだ「兵法家伝書」にも記されています。

先手

 実戦にあたって、武蔵は「先手」を重視します。

(P161より引用) 三つの先、一つは我方より敵へかゝるせん、けんの先といふ也。亦一つは敵より我方へかゝる時の先、是はたいの先といふ也。又一つは我もかゝり、敵もかゝりあふ時の先、躰々の先といふ。是三つの先也。いづれの戦初めにも、此三つの先より外はなし。先の次第を以て、はや勝つ事を得る物なれば、先といふ事、兵法の第一也。

 先のとり方によって、はやくも勝利を収めたも同然だと言います。先をとるためには、構えは重要ではありません。むしろ構えに拘るのは、「先手を待つ」という受身の姿勢の表れだと否定します。

(P224より引用) 太刀のかまへを専にする所、ひがごとなり。世の中にかまへのあらん事は、敵のなき時の事なるべし。其子細は、昔よりの例、今の世の法などとして、法例をたつる事は、勝負の道には有るべからず。其あひてのあしきやうにたくむ事なり。・・・兵法勝負の道においては、何事も先手先手と心懸くる事也。かまゆるといふ心は、先手を待つ心也。・・・然る故に、我道に有構無構といひて、かまへはありてかまへはなきといふ所也。

「先手」をとるには強い心が必要です。
 その観点から、武蔵は「長い太刀」を否定します。「長い太刀」は弱い心の表れだというのです。

(P214より引用) 他に大きなる太刀をこのむ流あり。我兵法よりして、是をよわき流と見たつる也。・・・世中にいふ、「一寸手まさり」とて、兵法しらぬものの沙汰也。然るによつて、兵法の利なくして、長きを以て遠くかたんとする、それは心のよわき故なるによつて、よわき兵法と見たつる也。・・・長太刀は大人数也、短きは小人数也。小人数と大人数にて合戦はなるまじきものか。少人数にて大人数にかちたる例多し。わが一流において、さやうにかたづきせばき心、きらふ事也。能々吟味有るべし。

 自分ではそれと気付かないうちに「長い太刀」を持っているかもしれません。反省しなくてはなりません。

目付け

 相手と相対したときにどこを見るか、武蔵は、「ふたつの『みる』」を論じます。
 その違いについて私には十分に理解できていませんが、「見」は普通に言う「見る」という概念に近く、「観」は、相手や状況の本質的・大局的な「把握」を意味しているように思います。

(P100より引用) 目の付けやうは、大きに広く付くる目也。観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。

 「見」の目に引きずられて、目先のこと細かいことに目を奪われてはならない、「観」の目で本質を捉えよとの教えです。

(P227より引用) とりわけて目をつけむとしては、まぎるゝ心ありて、兵法のやまひといふ物になるなり。・・・兵法の目付は、大形其人の心に付きたる眼也。観見二つの見やう、観の目つよくして敵の心を見、其場の位を見、大きに目を付けて、其戦のけいきを見、其をりふしの強弱を見て、まさしく勝つ事を得る事専也。大小兵法において、ちひさく目を付くる事なし。前にもしるすごとく、濃かにちひさく目を付くるによつて、大きなる事をとりわすれ、まよふ心出できて、慥なる勝をぬかすもの也。

 大局的な「観」の目で掴むものは、たとえば、「拍子」です。
 武蔵のいう「拍子」とは、共振するリズム・間合い・場の流れ・運命の浮沈の波・・・といったものを意味しているようです。

(P83より引用) 兵法の拍子において様々有る事也。・・・兵法の戦に、其敵其敵の拍子をしり、敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を知恵の拍子より発して勝つ所也。

千里の鍛錬

 千里の道も、一歩一歩を重ねて行き着くものです。

(P151より引用) 千里の道もひと足宛はこぶなり。緩々と思ひ、此法をおこなふ事、武士のやくなりと心得て、けふはきのふの我にかち、あすは下手にかち、後は上手に勝つとおもひ、此書物のごとくにして、少しもわきの道へ心のゆかざるやうに思ふべし。

 武蔵自身、日々の鍛錬と真剣勝負という経験を積み重ねて、自らの独自の兵法の道を拓きました。

(P152より引用) 千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。能々吟味有るべきもの也。

 武蔵は門人に地道な自己研鑽を強く求めました。とはいえ、武蔵の指導法は放任主義ではなかったようです。

(P235より引用) 我兵法のをしへやうは、初而道を学ぶ人には、其わざのなりよき所をさせならはせ、合点のはやくゆく理を先にをしへ、心の及びがたき事をば、其人の心のほどくる所を見わけて、次第次第に深き所の理を後にをしゆる心也。

 それぞれの人の技量・理解度に応じて、早くできそうなところから教えてゆきます。決して画一的な指導ではなく、相手をみた柔軟な対応です。
 この姿勢自体、どんな相手にもどんな状況にも敗れなかった武蔵の兵法の精髄につながるものだと思います。

(P235より引用) 我道を伝ふるに、・・・この道を学ぶ人の智力をうかがひ、直なる道ををしえ、兵法の五道・六道のあしき所をすてさせ、おのづから武士の法の実の道に入り、うたがひなき心になす事、我兵法のをしへの道也。能々鍛錬有るべし。

 武蔵の兵法を究めるには、奥義も型もありません。正しい心と徳が肝心との教えです。

 (P237より引用) 我一流において、太刀に奥口なし、構に極りなし。唯心をもつて其徳をわきまゆる事、是兵法の肝心也。



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