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エーゲ―永遠回帰の海 (立花隆・須田慎太郎)

歴史の深淵

 あとがきによると、この本は20年がかりで作られたものだといいます。

 今から遡ること40年近く、立花隆氏が写真家須田慎太郎氏と共に、エーゲ海をとりまくギリシア・トルコ等の古代遺跡を巡った紀行記です。立花氏の哲学的歴史的な思索の跡を辿った文と、須田氏の写実的な写真とのコラボレーションが見事です。

 シチリア島セリヌンテを訪れた際、立花氏は遠い歴史に思いを巡らせます。

(p155より引用) 突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思いちがいをしていたのにちがいないと思いはじめていた。
 知識としての歴史はフェイクである。・・・
 最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。・・・

 後世の歴史に何も記録されていない神殿を目の前にして、立花氏の思索はさらに深まります。

(p155より引用) 自分の前に存在している物体自体が正しい現実なのか、その存在を抹消してしまった歴史が正しい現実なのか。
 むろん疑問の余地はそこにない。・・・
 記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。

 総行程8000Km、エーゲ海の古代遺跡を憑かれたように訪ね歩いた立花氏の感慨です。

(p158より引用) この地を旅する者は、空間を超えて旅すると同時に時間を超えて旅しなければならない。
 クレタ文明、ミノア文明などは、いまから四千年、五千年前にさかのぼる一方、東ローマ帝国の遺跡などは、まだ千年もたっていないものがある。時間差数千年の歴史が隣り合っていたり、あるいは同じところに積み重なっていたりする。・・・
 フィリピだけではない。このあたりのどの町をとってみても、歴史のひだをかきわけかきわけのぞいていくと、何層にもわかれた歴史の地層のごときものが観察できて興趣がつきない。歴史だけではない。そこに、神話や伝説もまた積層されている。

千年の時間

 本書は、エーゲ海周辺の遺跡を巡る紀行文ではありますが、併せて、立花氏による哲学入門テキスト的な色合いの記述も見られます。

 立花氏は、終章でターレスについて触れています。
 ターレス(Thales 前625頃~前546)は、イオニアのミレトスで生まれた古代ギリシャの哲学者です。ギリシャの七賢人のひとりに数えられる「ギリシャ哲学の始祖」と言われる人物です。

(p292より引用) ターレスの「万物のもとは水」というコメントの内容が高く評価されて、彼が哲学の始祖呼ばわりされたというよりも、ターレスのこのコメントによって、一つの独特なものの考え方の範型が示され、それに刺激され、それにならって、あるいはそれに反発したりして、ものごとをより深く考え、議論をたたかわす一群の人々が生み出されたこと、その全体が評価されて、ターレスが哲学の始祖呼ばわりわれるようになったということだろうと思う。
 ここで大事なのは、哲学は、単独者の個人的な知的営為として成立するのではなく、複数者の交わす議論の中に成立するということである。
 つまり、哲学というのは、本質的にディアレクティケなのである。

 この他にもターレスの多彩な才能が紹介されています。天文学、幾何学、物理学、土木工学等々・・・。中でも有名なのが、前585年5月28日に起こった日食を予言したことでしょう。

 ところで、本書の序章。序章とはいえ約100ページのボリュームです。
 須田氏の写真に立花氏の短めのテキストが重ねられた体裁になっています。須田氏の写真は、立花氏にこういった文を添えさせました。

(p51より引用) 遺跡を楽しむのに知識はいらない。黙ってそこにしばらく座っているだけでよい。
 大切なのは、「黙って」と「しばらく」である。
 できれば、二時間くらい黙って座っているとよい。
 そのうち、二千年、あるいは三千年、四千年という気が遠くなるような時間が、目の前にころがっているのが見えてくる。抽象的な時間ではなく、具体的時間としてそれが見えてくる。
 千年単位の時間が見えてくるということが、遺跡と出会うということなのだ。

 なんとなく、分かるような気がします。
 一度は、こういった「本物経験」をしてみたいものです。


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